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ちはやのつぶやき

韓国ドラマ【宮】の二次小説・つぶやき中心のブログです。

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2022-10-25 (Tue)

【夏宵奇譚】第43章

【夏宵奇譚】第43章

【第43章 たどり着く前に】 青帝と紫仙女が出会い、互いの手を取った。 その出来事は水鏡を通して天界へも伝わった。「それでは、ここまでだな」 安堵のため息にも似た仕草を取った天帝は己の懐から銀色に輝く神具を取り出した。それは〈人〉の世に居る黄仙女が持っている神具と対を成すもので、彼女が持つ物は仙界と人間界を繋ぐための物。天帝が取り出したものは天界と仙界それに人間界を繋ぐ物だった。 銀色に輝くその神...

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【第43章 たどり着く前に】

 青帝と紫仙女が出会い、互いの手を取った。
 その出来事は水鏡を通して天界へも伝わった。

「それでは、ここまでだな」
 安堵のため息にも似た仕草を取った天帝は己の懐から銀色に輝く神具を取り出した。それは〈人〉の世に居る黄仙女が持っている神具と対を成すもので、彼女が持つ物は仙界と人間界を繋ぐための物。天帝が取り出したものは天界と仙界それに人間界を繋ぐ物だった。
 銀色に輝くその神具には数個の青い石がはめ込まれているが、その中央の台座にはその姿が無い。
「あるべきところへ戻ってくるのだ」
 天帝がその神具を天高く放り投げると、それはゆっくりと下降しながら輪を作りやがて天帝の目の前に来ると完全な輪となって光を放った。数刻前に炎帝が人間界から戻ってきたときと同じだ。
 光の輪が少し由来だと思ったその時、その中央から懐かしい姿が見えた。
「西王母…」
 天帝は目を細めるとその姿に己の手を差し出す。向こう側からも西王母が天帝の姿を確認できたのか、ゆっくり手を伸ばし、そして、光の輪をくぐる瞬間に互いの手をしっかりと握りしめた。
 西王母の身体が光の輪から完全に抜けだせば、神具は光を沈め力なく地面に落ちた。
「待っていたぞ」
「ようやく戻って来れました…」
 蟠桃園の空気を胸いっぱい吸い込み、西王母は安心してその身体を天帝に預ける。
「間もなく黄仙女があの二人をこちらに送ってくるであろう。それまで休むが良い」
 天帝は西王母の手をやさしく掴み持ち上げるとそっとその指先に口付けを落とした。その指先には、かつてこの仙界を離れた時に残して行った西王母の神力の源ともいえる長い爪が元通りになっている。
 足元に落ちた神具を拾い下げると、先ほどまでなかった中央の台座には青い石がしっかりとはめ込まれていた。
「〈人〉の世に影響を及ぼさぬよう我が爪を閉じ込めたはずのこの石は、天帝が持つその神具の一部分。それが紫仙女の琴にこの石があった。何度も生まれ変わった紫仙女が手にし、楽を奏でる毎に石の封印は薄れていき、今世で我の元に返ってきた」
「気づいたことはあるか?」
「ほんの少し」
「そうか」
 天帝は西王母の体をしっかりと抱きしめ、しばらくそうしていたが。ゆっくりと互い身体を離し先ほどから何か言いたげな表情を浮かべっぱなしの炎帝を見やる。
「二人が戻ってくるもうしばらくの間、〈人〉の世を覗いてみようではないか」

 水鏡の盤面が小さく揺れた。







「良いも何も、俺はお前と一緒に居たいんだ。この手を取れ!」
 それがシンの望み。
 チェギョンは薄っすらと笑みを浮かべた。
「ありがとう」
 チェギョンはそう言って、伸ばされたシンの手を取った。

 それが正解であると疑いもしなかった。
 すでに大広間の屋根は大きくその天井を失い柱の一部は火に包まれている。その火が床を伝い残された屋根を伝い壁を伝い、この広間全体が炎に包まれるまでには逃げ出せるはず。
 チェギョンの手を取ったシンの手。その袖口から再び姿を現した青龍は二人の間に浮かび上がり、何度か円を描いたのちに天に向かってその口から青白い光を放った。その光は今まさに手を取り合った二人の頭上に落ちようとしていた稲妻と真正面から衝突し、そしてその光を完全に消し去ってしまった。
 天界であれば造作もないことであるが、〈人〉の世で光を上回る速さで攻撃を仕掛けるなど、神力がいかに巨大な力であるのか証明するには十分な事だった。
 それを見上げて、シンは満足げに大きく息を吐いた。
  漸く求めていたものが手に入ったのだ。だからシンは気づけなかった。「ありがとう」と言ったチェギョンの表情がひどく落ち着いていたことの意味を。そして、この広間から早々に逃げ出していた王が何をしているのかさえも。



 王宮内は大混乱に陥っていた。いや、この状況では王宮内にとどまらず王都全体が被害を受けているかもしれなかった。
 誰が本当の王か、そんないざこざを引きずるわけにはいかない。守るべきものは沢山ある。王はひとまず安全と思われる部屋に避難するとすぐにドンソクに命じた。
「王都警備隊と連絡を取れ!必要なら王宮北の門を解放しろ!」
「しかし、あの門をくぐった先には正神殿が…」
「今更だ。星見だなんだと隠す必要はもうない。青帝は目覚めた。星見の予言もその存在もすべて無用のものになった」
 ドンソクは息を飲み込むと頭を素早く回転させる。
「御意!すぐにでも対策を講じねば。王宮警備隊とも連携を図ります!」
 部屋の外は相変わらず騒がしかった。ドンソクはその中に警備隊長の姿を見つけると大声を上げその名を呼んだ。現状の把握とこれから何をすべきか、王が王宮北門の解放を許可したことを手短に伝えると、警備隊長は近くに居た部下を数名引き連れて駆け出して行った。
 その後も慌ただしく指示を出しどうにかせねばと気をもんでいた時だった。

「ハヌル殿!」

 部屋の外でドンソクがその名を呼ぶ声が聞こえてきた。その呼びかけの後にハヌルの声と知らない女の声が聞こえるが何を話しているかまでは聞き取れなかった。すると、すぐにドンソクが王のもとにその女を連れてやってきた。
「王陛下。ハヌル殿が絵師ガンヒョン殿を連れてこられたのですが…」
 ハヌルの背後にその姿を隠していたガンヒョンが、ドンソクの紹介と共に王の前に歩み出る。互いに〈人〉の姿で顔を合わせたわけだが…。
「百番目の百花の精…」
 ガンヒョンがその後に続いて何か言おうとするのを王が「百花仙子様」と声を掛けて遮った。
「やはり貴女様でしたか」
「気づいていたの?」
「チェギョンの絵姿。あれをお書きになられたのは貴女様でしょう。あの絵には百花の守護が描き込まれていた」
「そうよ。私が彼女の姿を描くときは必ず百花の守護を描くようにしていたから。星見の記憶を引き継いでいるハヌルなら知っているでしょ?」
「…チェギョン様が妃候補となられたのは今回が初めてではありません。幾度となく後宮に入られ、その都度ガンヒョン様がそのお姿を描いておられました。王宮の倉庫に収められている歴代の妃候補の絵姿を探せばあるはずです」
 そこでハヌルはチェギョンの名を出したことであることに気づく。
「そういえば…チェギョン様はどちらに?大広間が落雷によって皆が非難されたとここに来る途中で聞いておりましたが…」
 そう言えば、とガンヒョンも辺りを見渡すが…チェギョンは愚かシンの姿も見えない。
「西の皇太后さまの元でしょうか?」
 王とドンソクが互いの目を見合わせ、ため息を漏らす。
「シンと一緒のはずだ。我々は先に避難してきたが…」
「王太弟殿下と一緒…ならば無事ですよね?」
 ハヌルは声を震わせそう尋ねると、開かれた扉から逃げ出して来た大広間の方を見た。王もドンソクも、そしてガンヒョンも、ハヌルの視線を追ってそちらに視線を向けた。
すると、信じられない光景が目に飛び込んできた。大広間上空から落ちてきた雷が、下方から放たれた青白い光とぶつかって霧散したのだ。
 それはあまりにも信じがたい光景だった。多くの人々がその光景を目の当たりにし、何が起こったのか茫然と立ち尽くしている。やがて、一粒二粒、雨がこぼれ落ちると、それはあっという間に数を増し土砂降りとなって降り注いできた。今度はその雨から身を隠すために大騒ぎになった。
 気が付けば、大広間を覆っていた落雷による火災は雨に打たれ鳴りを潜め、灰色の煙が幾筋も天に向かって伸びて行った。
「今の光は一体…」
 思わずつぶやいたドンソクに、その正体を知るガンヒョンが答える。
「青帝が青龍を使って雷を消滅させたのよ。彼の神力は天候を操ることに長けているから」
「青帝として覚醒し、その神力も取り戻した。ということは…紫仙女は青帝の手を取ったのだな。これで本当にこの国は天界との柵が消えた、ということだ」
 王はドンソクに一緒に来るよう促し部屋を出て行こうとする。
「王陛下、どちらへ」
 ハヌルが呼び止めるが王は歩みを止めず振り返りもせず「大広間に戻る」と言って足早に出て行ってしまった。
 あとに残されたハヌルとガンヒョン。
 ガンヒョンは近くにあった椅子に腰かけると大きく息をついた。
「ハヌル、貴女に話してもらったから…じゃないけど。妃選びが始まると聞いて絵師として王宮に来て驚いたのよ。先代の星見が北斗星君の姿をしていたこと。そしてその息子が百花の精霊だった〈あの子〉だったこと。母上様が星君らと計画した百花の事件は…おそらく天帝もすべてご存知なのよね」
「まさか!」
「百花の管理は百花仙子の仕事。もともと天界にしか存在していなかった百花。百番目はその名を曼殊沙華と言って種子を生み出すことが出来ない花。それを〈人〉の世に咲くことを許したのは天帝よ。母上様から聞くまでその事に気づかず、必死に九十九もの精霊たちを探し出した私にも呆れてるところよ」
「その…ガンヒョン様。曼殊沙華という花を見たことが無いのでわからないのですが…」
「え?だって、正神殿へ向かう橋のたもとに咲いているじゃないの」
 ハヌルは正神殿へ向かう道中を思い出すが、見たこともない花が咲いていただろうかと首をかしげる。もともと星見の力で知る者以外は正神殿へ入れないよう池の幻影を創り出し橋の姿を隠していた。それが、先ほど向かったところ幻影は消え去り牡丹が咲き誇っていたのは見たが。
「百番目の精霊であるあの王が生まれたときからそこにあったのだろうと思ったわ。あの子はね…それまでの百番目の精霊が〈人〉の輪廻に戻った後。百花仙子として初めて掬い上げた百花の精霊だったの。〈人〉の世にものすごく執着心があって、それ故になかなか〈人〉の輪廻に戻れないでいた。だから、あの子の姿を見た時驚いたのよ。精霊がその姿のままで〈人〉の世に降りるには神の因子が必要。星見である貴女のように…ね」


 そもそも、最初の星見を産み落としたのは百花の王だった。既に百花仙子としての神力を娘に譲り、神の因子を持ったまま長い間〈人〉の世に生きていた。南斗星君が己の小指の爪を〈人〉の世に堕とし、それをたどって百花の王のもとにやってきたのは偶然だったのか?
 いや、同じ神々として気づかぬはずはない。先代の星見は北斗星君の因子を持っていたと王は言っていた。そもそも、星見は南斗星君の因子を持った者から生まれる…。ハヌルにも王にもある赤い小指の爪がそれを証明するのだが。
「星見は南斗星君の因子を引き継いでいます。しかし…王陛下は北斗星君の因子を持つ先代の星見の子として〈人〉の世に生まれてきた。それでは先代の星見は…」
 ハヌルの中であり得ない事実が渦巻きめまいがしていた。ガンヒョンはその姿を椅子に座ったまま見上げ、言葉を紡ぐ。
「貴女が引き継いできた星見の記憶が正しいのならば、先代の星見は本当の星見では無かった」
「そんなはずは…だって、私は彼から星見の記憶と新たな予言も引き継いだのですよ」
「母上様の言う星君らとの計画。その一つだったのかもしれないわね」
 あきらめにも似た表情でガンヒョンは深いため息をついた。その傍らでハヌルは未だまとまらぬ真実に頭を悩ませている。
「青帝のために星見が存在するならば、なぜ先代の星見はまがい物だったのか。そもそも…記憶を引き継ぐことが出来ていた星見とはいったい何だったのですか」
「その答えを知っているのはこの世にはいない方々ね」
 そう言ってからガンヒョンはふと考えを巡らせてもう一つの可能性を導き出す。
「もしかしたら…だけど。紫仙女なら知っているかも。だって…」
 ガンヒョンは立ち上がりハヌルの肩を強く握りしめる。
「すべてを思い出した紫仙女は、天界での事件から今までのすべてを知っている者で、今現在ただ一人この〈人〉の世に存在している天界人だから」
「それは…」
 戸惑うハヌルの目を見てガンヒョンは延期を浮かべる。
「天帝は約束を守ってくださった。人間界に散らばった百花の精霊全てを見つけ出せば力を返してくださるという約束をね」
 ハヌルの肩に置かれたガンヒョンの手はそのままに、二人の間に光が生まれそれが始めたと思った瞬間。二人は先ほどまで自分たちが居た大広間にその姿を現していた。
 大広間の天井はそのほとんどを失い、先ほどまでの落雷によって発生した火災であちこち焼け焦げていて、その後に降りだした雨によって炎は勢いを失いすでに所々がくすぶっている状態だった。
 その中央に青帝と紫仙女が立っていて、すぐそばには駆けつけたばかりであろう王とドンソクの姿がある。そこにハヌルとガンヒョンが急にその姿を現したのだ。
「百花仙子」
 空間転移でその姿を現したガンヒョンを見て、紫仙女の口から思わずその名が漏れた。
 それが残された真実を知る者だという証拠であるということを確信させた。




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2022-09-24 (Sat)

【夏宵奇譚】第42章

【夏宵奇譚】第42章

【第42章 終劇】 蟠桃園は穏やかにそこにあった。 〈人〉の世で起こっている騒ぎは紛れもなく神々の世界に関わる事であるというのに。 東王父は水盆に張られた水面が先ほどから小さく揺れているのに眉をひそめていた。その水盆によって〈人〉の世界を覗き見ることが出来る水鏡を覗き込んでいるのは、白帝と炎帝、北斗星君に東王父の四人。水鏡は〈人〉の世にて騒ぎが起こっている王宮大広間を映し出している。王が王太弟に断...

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【第42章 終劇】

 蟠桃園は穏やかにそこにあった。
 〈人〉の世で起こっている騒ぎは紛れもなく神々の世界に関わる事であるというのに。
 東王父は水盆に張られた水面が先ほどから小さく揺れているのに眉をひそめていた。その水盆によって〈人〉の世界を覗き見ることが出来る水鏡を覗き込んでいるのは、白帝と炎帝、北斗星君に東王父の四人。水鏡は〈人〉の世にて騒ぎが起こっている王宮大広間を映し出している。王が王太弟に断罪されていたのだが、水鏡としての役目を果たしている水盆が小さく揺れ出した。水面が揺れれば水鏡も〈人〉の世の情報はとぎれとぎれとなる。
「何が起こっている?」
 東王父が水面を安定させようと水盆に手を伸ばしたその時だった。突如、水盆の水が底の方から何かが飛び出したかのように水柱を上げ、そのまま水鏡は何も映し出すことが無かった。
「どうした?」
「何が起こったの?」
 白帝と炎帝が同時に声を上げる。東王父も自ら作り出した水鏡がこのようになったことなど今までになく、茫然と立ち尽くすばかり。北斗星君のみ、落ち着いている。
「…おそらくですが、〈人〉の世にある何らかの媒体が失われたのでは?」
 北斗星君の声に東王父は小さく唸り、首をひねって言った。
「天界と〈人〉の世を繋ぐ媒体は黄仙女が持つ金の鎖の神具と紫仙女の守護石である紫水晶の欠片。先ほどまで水鏡に映っていた様子では黄仙女の持つ神具が壊れた気配はなかった。紫仙女の守護石は、元はこの蟠桃園最奥にある桃の木の根元にある紫水晶だ。紫仙女が〈人〉の世に堕とされたときに二つに割れ、その欠片が彼女と共に〈人〉堕ちた。星見とかいう、南斗星君の加護を受けた〈人〉の元にあるはずだが…もしやそれが失われでもしたか?」
「この時期にか?黄仙女も紫仙女も、その星見もすべて大広間に居たではないか」
 水鏡が無ければ今〈人〉の世で起こっていることを覗き見ることはできない。東王父が再び水盆に神力を込めた水を張り直したとて、媒体が失われればその場所を映し出すのは少々手間がかかる。それでも急ぎ水を張らねばと手をかざしたとき。
 蟠桃園の空気が揺らいだ。
 その気配にその場に居た4人とも膝をつき姿を見せた…天帝に最敬礼の姿勢を取った。
 玄帝を背後に従え、天帝は西王母不在の蟠桃園にその姿を現す。

「百花が揃った。百花の王は無に帰したぞ」
 天帝は穏やかに言うと北斗星君の前に立った。
「其の方らとの契約も間もなく完結しそうだな」
「天帝におかれましては、長きにわたり西王母の姿を〈人〉の世に置かれることをご了承頂き…」
「ふん。愚かなことではあるが、これで青帝も目が覚めたであろう」
「だとしたらよろしいのですが」

 天帝と北斗星君が交わす言葉の意味が良く理解できず、炎帝は頭を抱えていた。

「それで、南斗星君のほうは?」
「はい…青帝の帰還を待ってからの事になるかと」
「今回の事は四神を統率すべき我にも非があった故、其の方らの計画とやらに手を貸したまで。すべてが終わったのちに、天界の気が乱れることが無いよう」
「御意」
「では、我も此処で待つとしようか」
 そう言って、天帝は東王父が水盆に張り直した水に己が右手を差し入れた。ひと掻きしてその手を引き上げ水を払うと、水盆の水は揺らぎを消し、再び水鏡として〈人〉の世を映し出した。
「炎帝よ」
 天帝が未だ頭を抱える炎帝に声を掛ける。
「そなたを西王母のために〈人〉の世に遣わせたその裏には色々事情があった」
「天帝…私には何が何だか…」
「間もなく四神は元に戻る。ここに帰ってきた青帝の顔は見ものかもしれぬ」

 〈人〉の世…王宮大広間が映し出された水鏡に意識は向けられた。





 王宮大広間では、王と王太弟が睨み合っていた。
「たった今、百花の王の気配が消えた」
 王がそう言うと、大きな雷の音が鳴り響いた。
 それでなくても広間の中はこの断罪劇で混乱している。雷の音でさらに人の恐怖心を煽った。
「百花の王が維持していた結界も消えた。この王宮は…すでにその守護を失ったのだ」
「失ってなどいない。俺と…姉上が持つ守護の証しがある」
「百花の王が消えたことで予言はそのすべてが成就されこの先は生まれない。いいか?星見の予言は青帝のためのものだと先ほども言ったぞ。その予言が成就された、つまりは〈人〉に授けられた守護の証しもその役目を終えている」
 シンの脳裏には炎帝としての記憶をすべて失った姉ヘミョンの姿が思い出された。
「わが姉上…王女ヘミョンに聞いてみるか?」
 そう言って、王はヘミョンがその姿を隠していた場所を指差した。
 西王母の神力によってその姿を隠していたヘミョンだったが、こうなっては皆の前に姿を現しシンの援護をすべきだと思った。その思いを西王母が汲みヘミョンに纏わせていた神力を解いた。
 突如、王座脇に姿を現した王女の姿に人々は驚きの声を上げる。
「さあ、姉上。シンが言うようにその守護の証しをもって王宮を守っていただけますか?」
 ヘミョンはいつもそうしていたように胸元に手を当て、自らの胎内にあるはずの守護の証しを取り出そうとした。しかし。
「…!!」
 何の変化もない。
「どういうこと?」
「姉上の中にいた朱雀…炎帝はすでに天界へ還ったのです。あなたの中にはおろか、今この世に居る朱雀の守護を受けた者の中にもその存在はすでにありませんよ」
 王は意味ありげな視線を宰相に向けた。宰相の本当の出自を知っているのは限られた者のみ。今この場に居る数名が顔色を変えたことでそれが知れる。
「ならば、俺の持つ青龍の守護が…」
 シンはそれならば自分が、と己の身体から守護の証しを取り出そうとして動きを止めた。
 シンの視線の端にある人物の姿が飛び込んできたのだ。
「指名を受けていない者が玉座のある高台に上がるなど!」
 第一位の妃として指名を受けたミリが叫び声をあげる。しかし、その者はゆっくりと階段を上り、シンのすぐ近くに立った。
「すべてが揃い、長きにわたる転生の旅もこれで終わるのです」
「チェギョン…!」
 立后の儀のために着飾ったチェギョン。その名が妃の指名名簿になかったことに安堵した。さらにこの断罪劇が終われば、今回の立后の儀は無効となり、改めて妃選びが行われる。すべてはシンが計画してきたことだった。一度でも妃選びに参加した娘は二度と妃候補になれないのがしきたり。しかし、その儀式自体が無効となれば再度妃候補となる事は可能だ。
 覚醒していなかったとはいえ、偶然にも妃候補として王宮にやってきたチェギョンと出会えたのだ。青帝と紫仙女が〈人〉の世で王と妃として結ばれる。それこそがあの時天界で起こった事件に対するすべての終焉を告げる物。
「チェギョン。俺は正しい王となる」
 シンはそう言うとチェギョンに向かって手を差し伸べた。
「この手を取れ、チェギョン。俺たちは〈人〉の世でようやく番うことが出来るのだ」
 チェギョンがうっすらと笑みを浮かべた。
 次の瞬間。
 稲妻の光と共に轟音が降り注ぎ、それは大広間の屋根を直撃した。そして、屋根は崩れ落ち、その欠片が広間に居た人々の上に降り注いだ。さらには火の手も上がり、人々は我先にと外へ続く扉に群がっていった。妃に指名された者も妃候補であった者も、さらにはこの国の大臣たちでさえも。
 大広間は地獄絵図と化した。
 もはや断罪劇どころではない。さらに言うなれば立后の儀も今日の儀式自体が無かったことにするしかないだろう。
「シン!ここは危険だわ。避難しなくては!」
 ヘミョンの声にシンは振り向くと、西の皇太后の手を取り、この場から避難しようとする姿が見て取れる。東の皇太后も警備隊員にその身体を抱きかかえられるようにしてすでに大広間から出て行こうとしていた。
 シンは先ほどもそこにあった西王母の姿を探す。しかし見当たらない。
 火が勢いを増してきた。ここに居ても命を危険にさらすだけだ。
「王太弟殿下!ひとまず避難を!」
 警備隊隊長とギョンも玉座付近に居た人々の非難を誘導し、シンにもここから避難するよう促してきた。
 シンはどうあっても此処で決着を付けたかった。王を睨みつけるが、王は平然としている。その横にはドンソクが付き従っていてシンを睨みつけていた。
「このままここに居れば命はないぞ、シン」
「それはお前も同じことだろう?」
  再び雷が鳴り響いた。風も強くなっている。崩れ落ちた屋根がさらにその範囲を広げ、玉座の上に落ちてきた。あと少しの距離で直撃していただろう。それらから王をかばうようにして立ちふさがったドンソクが王の肩を掴んだ。
「あきらめてはなりません!貴方様は確かにこの国の王であられるのです。生きるのです!」
 王は大きく頷き、シンを再び見やる。
「私は行く。この続きをしたければいつでも良い。待っているぞ」
 王はドンソクと二人、大広間から出て行く。シンも此処に居残ることは得策ではないことくらいわかっている。
「俺の手を取れ、チェギョン!ここから逃げるんだ!」
 この騒ぎの中にあっても、チェギョンは怯えることなくその場に立っている。なぜ己の手を取らない。焦りがシンの中で大きくなっていくのを感じる。
「チェギョン!いや…紫仙女!」
 伸ばされたシンの手。その袖口から青帝の眷属である青龍が飛び出した。それにはシン自身も驚いた。覚醒して初めて青龍がその姿を見せたのだから。
「良いの?」
 チェギョンが一言。その声に青龍も反応しその動きを止めた。
「私が貴方の手を取れば、神々の取り決めた条件は満たされ永遠となる」

 
――〈人〉の世に紛れた互いを見つけ、その手に互いを抱くことが出来たのなら…どの世にあっても二人は永遠になる。


「王陛下が言う通り、私が貴方のその手を取ることがすべての終わりの合図となる」


――〈人〉の世に紛れた互いを見つけぬうち、もしくは見つけたとしてもその手に抱くことが出来なければ、輪廻によって永遠に人の世を彷徨うことになる。


「その手を取ることを拒めば…天界へ還る道は全て閉ざされる。貴方の望みは何?青帝として天界へ還る事?〈人〉の世に留まって、シンが言う正しい王となる事?」


 チェギョンの問いにシンは迷うことは無かった。なぜなら青龍が自分の元に現れた。それは自分が紛れもなく青帝であり、天界の四神である神の一人であることを確信させたからだ。あの蟠桃園での悲劇から〈人〉の世で幾度転生を繰り返したのだろうか?自分は今世のことしか記憶にないが、これまでのチェギョンの言動から考えるに数多くの転生を繰り返して来たに違いない。
 ならば、漸く巡り会えたのだ。互いに想い合うあの記憶を覚醒させて、何を迷うことがあろうか。

「良いも何も、俺はお前と一緒に居たいんだ。この手を取れ!」
 それがシンの望み。
 チェギョンは薄っすらと笑みを浮かべた。
「ありがとう」
 チェギョンはそう言って、伸ばされたシンの手を取った。



 それが、すべての終わりだった。
2022-08-25 (Thu)

【夏宵奇譚】第41章

【夏宵奇譚】第41章

【第41章 予言の終焉】 王宮の上空に稲妻が光り出したころ。 大広間では王太弟による王の断罪劇が繰り広げられている。西王母の神力でその存在を隠されていたハヌルはなにやら胸騒ぎがしていた。さっと広間を見渡すが、そこに女官長であるスヨンの姿は見えなかった。 立后の儀と言う重要な儀式に女官長の姿が無いのはおかしい。妃の指名が終わり、王より正式に妃の位を授けられた者たちを後宮まで先導するのが女官長の役目。...

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【第41章 予言の終焉】

 王宮の上空に稲妻が光り出したころ。
 大広間では王太弟による王の断罪劇が繰り広げられている。
西王母の神力でその存在を隠されていたハヌルはなにやら胸騒ぎがしていた。さっと広間を見渡すが、そこに女官長であるスヨンの姿は見えなかった。
 立后の儀と言う重要な儀式に女官長の姿が無いのはおかしい。妃の指名が終わり、王より正式に妃の位を授けられた者たちを後宮まで先導するのが女官長の役目。当然、広間内に居ると思っていたのにその姿が無い。
 胸騒ぎは収まらず、目の前で王と王太弟が言い争っている、その時だった。
 星見として感じる何かが弾け飛ぶような感覚。それとほぼ同時に王が言い放った。

「ああ…たった今、百花の王の気配が消えた」

 思わず立ち上がったハヌル。それと同時に西王母も立ち上がっていた。同じ場所に身を潜めていたヘミョンは訳が分からず二人を見上げるしかない。
「百花の王が…」
「西王母様、正神殿へ行かねばなりません」
 西王母はひとつ頷くと己の手をさっと天に向けた。その瞬間、まばゆい光が広間を埋め尽くし、光が消えた後にはまるで時が止まったかのように身動き一つしない人々の姿がそこにあった。
「〈人〉の時をわずかだが静止させた。今なら青帝の作った結界を解除することも可能なはずである。行くがよい星見よ。そなたの役目は最後の時を迎えておる」
 ハヌルは急いで扉へと向かう。何かの力が働いていたであろうその扉は、ハヌルがその前にやってくると自然に開き、そして、ハヌルがそれを潜り抜けると同時に再び元のように固く閉じられた。
 ふと。西王母の目は、広間の末席に動く者を捕らえた。己の神力の中で動ける〈人〉が居るはずもないのに。その者はすぐ近くの扉を急いで開くとそのまま広間から飛び出していった。
「そうか。そこに居たのだな」
 西王母は大きく頷き、天に向けていた手を振り下ろした。静止していた〈人〉の時が元に戻り、再び広間はざわめきに包まれた。




 広間を向けだしたハヌルは、外の世界の変化に戸惑っていた。
 儀式が始まる前、空は晴れ渡り心地よい風が吹いていた。それなのに今は、空は黒く染まり雷鳴が轟き雨も降りだしている。そして、気づいてしまった。この王宮を包んでいた結界が失われてしまっている事。その結界はこの王宮を守るという大義名分のもとに星見を縛り付けておくものだった。それが今、失われている。
 神殿に駆け込み、面通し所に足を踏み入れ声を上げる。
「スヨン!いるの!?」
 何者の気配も感じない。嫌な予感がする。ハヌルはさらにその奥へと向かった。己の住処である正神殿。そこへ続く扉を開いたハヌルは驚きで立ち止まった。
 神殿奥にある正神殿へ行くには特別な橋を渡る必要があった。その橋が架けられているのは大きな池。その池にあるはずの水はすっかり失われていて、水の代わりにあったのは、赤紅色の花びらを持つ牡丹の花。天界に咲く花の一つでそれは百花の王の物だった。
「…スヨン…!」
 水が失われ、今は牡丹の花の上に架けられている橋を渡る。正神殿の入り口を勢い良く開けると、そこに居たのは…。

「母上様!」

 突如、ハヌルの背後から声が上がり、ハヌルは驚いて振り返った。その声の持ち主はハヌルなど見もせず、その場に居た者の側に駆け寄った。しかし、触れようと伸ばした手はその姿をすり抜けてしまう。
 ハヌルの脳裏に初代星見の記憶が蘇る。その姿は紛れもなく星見を産んだ母である者だが、いま駆け寄ったその者の母でもあったのだ。

「貴女が…百花仙子様だったのですね」
 ハヌルが声を掛けると、その者はゆっくりとこちらを振り返った。
「絵師ガンヒョン様」
 涙で頬を濡らしたガンヒョンは小さく頷いて見せた。
「やっと母上様の居場所を突き止めることが出来たというのに、ここに居るのは魂のみ…間もなく本当に母上様は無になってしまう」

――わが子らよ…

 ハヌルとガンヒョンはそこに居た百花の王である者の魂に向きなおった。

――私の力はすでに失われました。天帝より授けられたすべての条件を満たし、間もなく私は無に帰すことになります。

「母上様。貴女が私に百花仙子となる事を約束されたときにいずれはそうなるだろうと思っていました。ですが、人の世に降りられたと聞いたその後に百花の事件が起こり、私はその責任を取るために天界を追われました。百の花の痕跡を求めたどり着くのはいつも紫仙女様の元。その理由もようやく解ったというのに…」

――星君らと私ですべて計画したことです。貴女を巻き込んでしまって申し訳ないと思っています

「計画…?」
 百花の王が口にしたその言葉にハヌルは驚きの表情を浮かべた。

――ああ…もうすべて無になります。星見よ…人として降臨した私の唯一の子。神の因子を産み落とすためには天界人の器が必要だったのです。あなたの予言が成就するまで私は此処に居ることを約束させられました。それももうお終いです。暁の奥に真の希望があらんことを…

「母上様!」
「百花の王!」

 百花の王の姿は無数の光の粒となり一気にはじけ飛んだ。後には何の気配すら感じることは無く…。そしてすぐ。格子の隙間からまばゆい光が差し込むとともに巨大な音が降り注いだ。それに続くように大小の雷が次々に騒ぎ立てる。
 茫然と立ち尽くすハヌルとガンヒョン。
「百花の王は巻き込まれたのではなく、望んで逝った?星君らとの計画?」
 消えゆく百花の王の告白にハヌルは頭が混乱していた。
神が無に帰す。その守護たるものが存在し続けるならば神の代替わりとしてその神力は受け継がれて行く。それはすでに目の前に居るガンヒョンが百花仙子として成している。故に天界の百花はこの先も咲き続けるのだろう。しかし、問題はそこではない。
百花の王は『星君ら』と言った。星見を〈人〉の世で存在し続けることを創り出した南斗星君と、自分の先代の星見としてその因子を〈人〉の世に送り出した北斗星君。生と死をそれぞれ司る星を守護する神たち。星見は青帝と紫仙女を天界へ戻すために造られたのだ。それまでの星見の記憶ではそうだったはずだ。
 それなのに、星見二人と百花の王の計画だった。
「星見。百花の件はこれで終わりました。青帝の件は…」
 ガンヒョンが言いかけて何かの気配に気づく。星見の部屋、そこに置かれている棚に真っ直ぐ歩いていき扉を開けると、そこにはいびつな形をした紫水晶が置かれていた。星祭りの儀式に使う天界とこの場所を繋ぐための神具。代々の星見に引き継がれてきた物。
 それを取り出し少しの間眺めると、ガンヒョンは床にたたきつけ自分の足で踏みつけた。すると、水晶は粉々に砕け散った。
「何をするのですか!」
 ガンヒョンの行為に慌ててハヌルが駆けつける。
「これは、星祭りの日に天界と人間界を繋ぐための神具。さらには、紫仙女の守護石そのものの欠片であるのですよ。それを踏み砕くなど…!」
 怒りで声を荒げるハヌルにガンヒョンは冷ややかな視線を向けた。
「貴女も真実を知らない。いえ…代々の星見は先代の星見を除いて誰一人として知らされていなかった。星祭りの日、天界と人間界を繋ぐための神具…これはそんなたいそうなものではないわ。青帝がこの世に〈人〉として誕生すると青龍の守護を授けられる。青龍の守護の証しとこの紫水晶は対になる物。星祭りの日、守護の証しを持つ者が祈りを捧げるでしょう?それはこの紫水晶を通して天帝の元へ青帝の力を届けていたのよ。だって、天界の四神は天界の四方を護らねばならないのに、その力が一人でも欠けていたら天界が困るでしょう?」
 そう言って笑みを浮かべたガンヒョンを見てハヌルは思わず息を飲み込んだ。そんな大事なものを、粉々にしたというのか。
 ガンヒョンはそんなハヌルの心の声を聞いたかのようにさらに言葉を続ける。
「安心なさい。その役目はすでに終わっているわ。星見の予言は全て終わったのだから。母上様が無に帰し、私が百花仙子としてすべての力を引き継いだ。間もなく青帝も天界へ戻ることになるでしょう。神の理はまた元の流れに戻る。その理の中にこの紫水晶は戻ることは無いけれどね。役目を終えたら砕いてほしいと願ったのは天帝よ。だから何も気に病むことは無い」
「予言がすべて終わった…。それでスヨンの姿は見えないのですか」
「そうよ。九十九番目のあの子は母上様が紅の花を咲かせたその瞬間に精霊となって人間界から消えた」
 正神殿。ここに来る途中で咲き誇っていた赤紅色の花びらを持つ牡丹の花。天界に咲く精霊が守護する一番目の花は牡丹…。
「この先に新たな予言は生まれない」


 眩しい光と同時に大きな音が降り注ぐ。稲妻は神殿の屋根を直撃した。




2022-07-17 (Sun)

【夏宵奇譚】第40章

【夏宵奇譚】第40章

【第40章 正と偽】「貴様ら血迷ったか!」 その声を発したのは宰相だった。己の目の前に立つのは王宮を守るために組織された警備隊員で、さらに言うなれば、王の首元に剣を突き付けている隊長は王を護るために存在しているはず。それなのに、これは一体どういうことなのか。王の座る玉座から少し離れた場所に居る東の皇太后を見れば、彼女の元にも槍を手にした警備隊員が一人。東の皇太后は大きく目を見開き、化粧を施している...

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【第40章 正と偽】

「貴様ら血迷ったか!」

 その声を発したのは宰相だった。己の目の前に立つのは王宮を守るために組織された警備隊員で、さらに言うなれば、王の首元に剣を突き付けている隊長は王を護るために存在しているはず。それなのに、これは一体どういうことなのか。王の座る玉座から少し離れた場所に居る東の皇太后を見れば、彼女の元にも槍を手にした警備隊員が一人。東の皇太后は大きく目を見開き、化粧を施しているはずなのにそれでもわかるくらい青白い顔をし、座っている椅子の手すりを固く握りしめ震えていた。
 素早くあたりを見渡せば、すべての王宮警備隊員がこのようなことをしでかしたのではないことが分かった。目の前で起こっている事態についていけず戸惑う隊員が数名いる。しかし、そんな彼等とて、今にも王の首を切り落とさんばかりの隊長と隊員二人の剣を前にそれ以上は踏み出せないでいた。
 宰相の問いに答えるものはなく、目の前の隊員は無表情のままだ。隊長がこのようなことをしでかしているならば、事情を知らない隊員を統率する者はいない。何もかも図られていた、ということか。ならばいったい誰が。最初に思い浮かんだのは西の皇太后だった。
 東の皇太后の対抗勢力。しかし先代王の御代から今に至るまで表立った何かをしているわけではなかった。探りを入れてはいるが裏で何かをしているわけでもなかったのだ。それがまさか…。
 青白い顔の東の皇太后。王を挟んでその反対側に座る西の皇太后はうっすらと笑みを浮かべているようにも見て取れた。
 宰相は立后の儀と言う大事な儀式のこの場で、まさか西の皇太后が何かを仕掛けてくるとは思ってもいなかった。
「これはいったいどういう事だ!王宮警備隊とあろうものが謀反を企てるというのか!」
 再度宰相が声を張り上げた。その声に応えるように、玉座脇に座る王太弟がゆっくりと立ち上がった。その姿を見て宰相はさらに驚いた。
 西の皇太后ではない、今回の首謀者は皇太弟シンだったのだ。
 王弟として王の傍らにあり、政も何もかも王の陰の力として活躍している…はずだった。王自らもシンを頼りにし、二人は強い信頼関係にあるのだと疑いもしなかった。それが…。

「謀反?いやこれは偽りの王を断罪するために行っている物だ」

 シンの言葉に広間中から驚きの声が上がった。数名、顔色を悪くし俯く者がいる。シンが今言った言葉を理解し何が今起こっているのかをこれで納得できたようだ。
 シンはゆっくりと数歩前に出た。そこに立っていたドンソクの肩に手を乗せその目を見る。ドンソクの身体は極度の緊張でがちがちになっているのが分かった。目を見れば、おそらくこうなることは予め分かっていたようだった。ドンソクの耳元に顔を近づけ、周りに聞こえないようにささやいた。
「お前にもわかっているはずだ。これはこの国にとって必要なことだ」
 ドンソクがその身体を跳ねさせた。すべてを知ってしまった者として、シンの言うことに間違いはないのだと思う。しかし、自分が主と決めたのは王ただ一人。その王が間違いだったとしても、自分は彼を見捨てることなどしない。
「…それでも…」
 やっと出た声だが、その声の先は紡がれることは無かった。自分の肩に乗せられたシンの手に力が込められたかと思うと、訓練も受けていない内官の身体は跳ね飛ばされていた。
 派手な音を立ててドンソクの身体は玉座の後方に転がった。

「今その玉座に座り妃を選ぼうとしているその男は、この国のこの王家の血を一滴たりとも持たぬ偽者だ」

 シンは王の前に立ち、大きな声で広間中に居並ぶものすべてに聞こえるように言い放った。
「王太弟殿下!何を申しておられるのですか!馬鹿々々しい。東の皇太后は先代王の妃。その妃から生まれた王陛下は紛れもなく先代王のお子である!」
 宰相も顔色を悪くしながらも声を張り上げる。
「しかも、先代王が直接王陛下をご自身の跡継ぎにとご指名なさった。その場に王太弟殿下も同席されていたはずです!」
 それは紛れもない事実である。シンだけでなく二人の皇太后も、今声を張り上げている宰相も、その場に立ち会っていたのだから。
「偽者、と言うのであればその証拠をお見せいただきたい!」
 そのやり取りに東の皇太后派出る者たちからも声が上がった。そのざわめきを一瞥し、シンはその目を細めて言う。
「宰相。確かに…この男は東の皇太后から生まれた者」
「話になりませんな。王太弟殿下のおっしゃることは意味不明だ!」
「では、本人の口から語ってもらうか?」
 そう言って、シンは未だ何も声を上げることなく座っている東の皇太后の方を見る。
「権力の座にしがみつくために、他の男と関係を持ち、その子を産んだ東の皇太后殿」
 ざわめきが一層大きくなり、広間中の視線が東の皇太后に向けられた。
「自らの王位を欲するがために、王陛下だけでなくその生母である東の皇太后までも愚弄するおつもりか!」
 宰相の叫びを受け、そこで東の皇太后がともに王太弟を諫める…そう思っていたのに。

「…違う…」
 東の皇太后は絞り出したようなかすれた声で一言つぶやくと激しく首を振る。
「私が欲するのはこのような未来ではなかった」
 
 それはどちらにもとれる言葉に聞こえた。
『王太弟の言葉を否定するもの』
『王太弟の言う通り自らの罪を認めるもの』
 宰相は当然のように前者の意味でそれを捕らえる。
「王陛下を偽者と言うなら、それは先代王をも貶めることになりますぞ」
「貶める?父である先代王はこの事実をご存知であった。もっとも、それを知ったのは即位の礼が行われた後であったが」
「嘘だ!東の皇太后様!何か言ってください。王陛下は正統なるこの国の王であると!」
 しかし、肝心の東の皇太后はぶつぶつと何かをつぶやきながら頭を抱えている。どう見ても正気とは思えぬ姿。
 そこでもう一人の声が上がった。

「わが母ながら使えぬ女だ」

 王宮警備隊隊長とギョンはその声に驚き思わず体が震えた。自分たちが剣を向けている男がこれまでには聞いたこともないような冷たい声を発し、ゆらりとその場に立った。そして右手を一振り。それだけで王宮警備隊の二人の身体が吹き飛ばされた。その異様な光景に臣下の一人である者が何かを感じ取った。
 この国の王の妃を選ぶ儀式のはずだ。それなのに王宮警備隊が王に剣を向け取り押さえ、広間に居る者たちを取り囲みここから出さないとばかりに取り囲む警備隊ら。さらに今目の間で繰り広げられている光景。これらから察するに、王太弟が謀反を起こしたのは明らかだ。
 そして、王は…今、何をしたのだ。自分に剣を向けていた男二人、それも王宮警備隊の屈強な男たちをだ。軽く手を振り払っただけで吹き飛ばすなど…。
「…化け物だ」
 思わず口から洩れたその声を、隣にいた男が聞き取る。それが引き金となり「化け物」と言うざわめきが広がっていく。さらには恐怖で震えている妃候補や女官たちが叫び声を上げ始めた。
 大広間の入り口近くに居た一人の男が、ゆっくりとその場を離れようとするが、入り口の扉はすでに王宮警備隊員らによって封鎖されていた。この場から逃げることもできないと悟ったその男が大声を上げた。
「助けてくれ!」
 その切羽詰まった声が人々の恐怖心を煽った。大広間のあちこちで叫び声が上がり、とにかく逃げ出そうともがく者たちでひどいありさまだ。その中でも三分の一ほどの人たちは静かに事の成り行きを見守っている。王太弟が今日事を起こす事を知っていた者たち、つまりは王太弟派の人間と言うことだ。
 王は玉座から広間を見渡していた。
「化け物…か。それなら、お前も一緒だろう」
 王はそう言ってシンを見る。
「〈人〉から見れば神力や仙力を持つ我らは化け物に見えるだろう」
 王の言葉を受け、シンがゆっくりと視線を向けてきた。
「〈人〉にとってあり得ない力を持つ者は皆化け物だ。しかし、その力があったからこそ王として君臨することが出来たのもまた事実」
「何が言いたい」
「シン、お前は血にこだわるが、先王は確かにこの私を次代の王へと指名した。お前もしっかりと見て聞いていたはずだ」
「ああ、そうだ。だからなおの事、俺は信じられなかった。なぜ先王は自分の子ではないと知りつつもお前を次代の王に指名したのか」

 大広間はまだ騒がしかったが、王太弟派や宰相をはじめとする王の支持者たちは、玉座の前で王と王太弟が話す内容に衝撃を受けていた。現王は先王の実子ではないとまことしやかにささやかれてきた噂。そうあくまでも噂だったはずだ。だからこそ、先王は東の皇太后の産んだ王子を次代に指名したはずだ。そうでなければおかしい。
「先王は全てを知っていた。自分の息子である王子は青帝である事。自分の次代で青帝と紫仙女を巡る騒動に幕が下ろされる事」
 そう言って、王はゆっくりとシンの前に歩み寄った。
「青帝として覚醒するにはいくつかの条件があった。これまではどこかが何かが足りずに転生を繰り返してきたはずだが、今回はそのすべてが揃った。それすらもすべて先王は知っていた。それ故、この私を次代に指名したのだ」
「青帝として覚醒したのは確かだし、紫仙女もすでに覚醒済みだ。でも、それは俺たちの出来事であって、この国の行く末には関係のないことだ。俺は今、この国の王の正当なる後継者としてこの場に立っている」
「過去にも青帝として覚醒した事はあったと思うが…。星見が受け継いできた青帝と紫仙女を巡る予言は成就される時がくる。ではその後は?」
 シンの片眉が動く。
「お前はその後のこの国がどうなるか考えたことは無かったのか?」
「どういうことだ」
「『目覚めたその先に理は続く。琴を鳴らせ、音にのせて舞え。百花の王は百の花を咲かせる。その花は散り際に天を暁に染める。暁の奥に真の希望が生まれる。』」
 星見の予言の一節だ。王が口にした予言のその前の文はすでに成就されているもの。
「星見の予言は青帝のためのものだということは理解しているか?すべての条件が出そろう現代。予言はこれ以上出現しない。ならばこの国はどうなる?」
「予言がなくとも正しい王が導けば国は安泰だ!」
「青帝が〈人〉として最初に転生した時を覚えているのか?いや、覚えていないのだな。覚えていればこの王宮を護る結界についても知っているはずだが…お前は知らなかった」
 王は一呼吸置き何かを考える仕草をしたが、すぐさまシンを見つめその唇に弧を描く。
「そうか…青帝が覚醒したときによみがえる記憶と言うのは天界での記憶のみ。なるほど…紫仙女はさぞかし苦労してきただろうな」
「何を…!」
「新たな予言が出現しない、となれば、この国の未来に起こる災いについては避けようのないものとなるだろう。はるか昔、この国の王が兄王を殺しその地位を自分の物とした時、星見を手に入れた。星見の予言を都合よく我が物としたおかげで、この国は栄え、他の国の侵略からも避けて通ることが出来た。その予言が消えても、お前が言うように正しい王が導けばこの国は安泰なのだろう。では正しい王とはなんだ?予言がなくともこの国を導く力を持つ者であれば、それは正しい王と言えるのではないのか?他国のように血に縛られた王が即位押したおかげで悪政となり滅んでいった国を私は知っている。
守護を持たない王がいても何らおかしくはない。私は…父上に認められてこの国の王位を継いだのだ。先日、お前にそう言って聞かせたはずだ」

 王と王太弟。二人の会話を聞いていた宰相が大きく頷いた。
 王が即位し新たな政治が始まって以来、この国は安寧だった。悪政などは起きていない。むしろ、その王を補佐し、兄弟ともに手を取り合って政を成し遂げてきたはず。ここは王側の人間として説得を試み、何とかしてこの場を乗り切らねばならない。乗り切った後は…二度とこのようなことが起きないよう排除すればいいのだ。
 緊張しつつ話に割って入る機会を窺っていた宰相だったが、ふと、聞きなれない人物の名が混じっていたのに気づいた。

 青帝と紫仙女…?


「王陛下のおっしゃる通りですわ!」
 突然女の声が響き渡った。
 声のする方を見れば、王宮警備隊に拘束されている、先ほどの妃指名で第一位の妃とその名を読み上げられたミリであった。
「王陛下は即位される前も、即位され王となられた今でも、その賢王ぶりは広く国民の知るところ。何より、先王陛下がお認めになった…それこそ正しい王ですわ!」
 ミリの声に、それまで固唾をのんで事の成り行きを眺めていた者たちからも声が上がり始める。

 
今更、血筋がどうのこうので王を断罪するのはおかしい。既にこの国の王として素晴らしい政務を執っている、王たるその働きに不満はないのに、王太弟は自分が王になりたいがためにこの騒ぎを起こしたのか?しかも、立后の儀と言うこのしきたりにのっとった席で!そもそも血筋が違うのであれば先王は次代に指名しない。自分が指名されないからと言って逆恨みしていたというのか?


 さらには、この広間から逃げ出そうと騒いでいた者たちもいつの間にかこちら側に意識を集中しており、ざわめきはさらに大きく広がる。そのほとんどが現王を肯定するものであり、このような騒ぎを起こした王太弟の方が否定すべき存在だと口々に言い合っている。
 さすがに、こんな展開になるとは思っていなかった。王派である宰相率いる者たちが異を唱えるだろうとは思っていたが。いつの間にか広間全体の雰囲気がおかしい。何かが、起こっている?
 シンが広間全体を見渡す。特に怪しいものはない。強いて言うなら、今その姿や気配を西王母の神力で隠し、この場に居る者たち。

「何を探している?」
 王の言葉にシンの表情がかすかにだが変わる。それを見逃さず、王は愉快そうに口元を緩めた。
「この広間に結界を張り巡らせたのは間違いだったようだな。おかげで外の気配まで伝わらない。既に百花の王が力はそのほとんどが消え失せているぞ。星見がこの場に居なければもう少しましな対応ができていたかもしれないな」
「何だって!」
「ああ…たった今、百花の王の気配が消えた」
 王がそう言った途端、玉座から一番遠い席の方からかすかに息を飲む音が聞こえた。それは広間のざわめきに紛れ、普通であれば聞こえるものではないが、王と、その姿を神力で消していた西王母には聞こえていた。


 広間の結界は此処から出ることもできなくしていたが、外の気配も断ち切るもの。
 だから、誰も気づいていなかったのだ。
 王宮の上空には暗雲が立ち込め稲妻が光り大きな音を立てていたことを…。



2022-05-28 (Sat)

【夏宵奇譚】第39章

【夏宵奇譚】第39章

【第39章 立后の儀】 王宮正殿、大広間。 二十名の着飾った妃候補が自分達の絵姿が掲げられたその下にずらりと並ぶ姿は圧巻であった。立ち会うことを許された者たちから思わず感嘆のため息が漏れる音が聞こえる。玉座まではそれなりに距離があるとはいえ、一段高い場所から見下ろせば確かに。 中央の玉座にはいまだ王は姿を見せず、その左右に鎮座する皇太后二人に王太弟。その王太弟の席の後ろに身を隠した三人。「随分大胆...

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【第39章 立后の儀】

 王宮正殿、大広間。
 二十名の着飾った妃候補が自分達の絵姿が掲げられたその下にずらりと並ぶ姿は圧巻であった。立ち会うことを許された者たちから思わず感嘆のため息が漏れる音が聞こえる。玉座まではそれなりに距離があるとはいえ、一段高い場所から見下ろせば確かに。
 中央の玉座にはいまだ王は姿を見せず、その左右に鎮座する皇太后二人に王太弟。その王太弟の席の後ろに身を隠した三人。

「随分大胆なお出ましで」
 王太弟シンは表情を変えずまっすぐ前を見たまま小さくつぶやく。隣に座っている西の皇太后がその声に気づきシンの背後をちらりと見やったが、そこには誰もいない。いや、実際は西王母の神力で姿を眩ませている三人が居た。
「流石は青帝。我の力もお見通しか」
 西王母の神力は姿を見えなくするだけではなくその声も己の姿を認識できない者には聞こえぬようにしてある。
「これだけ〈人〉しかいない中でほんのわずかでも神力の気配があればわかると言うもの」
 まるで会話のような独り言を繰り出すシンに、西の皇太后は眉をひそめる。それに気づいたシンが手を伸ばし西の皇太后の手にそっと触れた。すると、西の皇太后は自分の手に少しばかりの痛みが走ったと同時に、先ほどまで見えなかったものが見え、思わず目を見開いた。
「…!」
 ぼんやりとした輪郭に浮かび上がるのは西王母にヘミョンそしてハヌルの三人。先ほどのシンの独り言も彼女たちとの会話の一つだったのかと納得できた。

「王陛下のお出ましにございます!」

 先導役の内官が大広間の入り口で声を張り上げた。それまでざわついていた大広間内が静まり返る。王が姿を現すと妃候補たちも改めて背筋を伸ばし笑みを深めた。
 王が玉座に向かう途中で視線だけでシンの背後を見やった。だが何を言うわけでもなくそのまま自分の席に腰を落ち着けた。
 王が玉座に腰を掛けると、その脇にドンソクが控える。その手には巻物があり恭しく持ち上げていた。
 王から見えるは、まずは妃候補たちの姿。顔合わせの儀と同じく横一列に並んでいる。その後ろには宰相をはじめとするこの国の重臣たち。さらにその後ろには彼らを補佐する臣下たちが並び、最後列には妃候補たちの絵師の姿があった。

「それではこれより立后の儀を執り行う」

 玉座から一段低いその場に立つ内官が声を張り上げた。それから王の側に控えていたドンソクが静かに歩みを勧め、妃候補たちの前に立った。
「これから妃の名を第一位から順にお呼びいたします。名前を呼ばれた妃候補は玉座の前までお進みください。なお王陛下に置かれては第五位までの妃をお選びになられております」
 そう前置きして、ドンソクは巻物をゆっくりと紐解いていく。一度王の方を見ると、王は大きく一つ頷いた。どこからかつばを飲み込む音がいくつか聞こえてきた。妃候補たちも緊張の面持ちである。

「それでは第一位の妃の名を読み上げます。宰相がご息女…ミリ様」

 広間にどよめきが広がる。予想通りと安どの者たち、あるいはまだ第二位の位があると息まく者たち、はたまたこれで自分たちが推す妃候補は外れたとあきらめる者たち。様々などよめきだ。
 さらにドンソクは妃となる者の名前を読み上げていく。それに呼応し玉座の前には第一位から第五位までの妃が並び立った。

「以上、ここに五名の妃を選び立后とする」

 巻物に書かれた文字をすべて読み上げ、再びそれを巻き取るとドンソクは王に向かって一礼し元居た場所に戻った。どよめきはわずかばかり収まったものの、そこかしこでささやき合う者がいるため広間はざわついている。第一位の妃となったミリについては大方の予想通りであったが、その他の四人に至っては予想を裏切る形となっていた。それはつまり…。

「西の皇太后さまと繋がりがあるお嬢様は一人も妃に選ばれてないのね」
「おい、ガンヒョン!滅多なことを口にするな!」
 大広間の一番末席である絵師たちの中、さらにその隅に立っていたガンヒョンが声に出すと、隣に立っていた彼女の兄弟子が慌てて彼女の口を手のひらで押さえた。運よく他の者たちは選ばれた妃たちに興味を持っていかれているようで末席の絵師の声を聞いている者はいなさそうだ。
「何よ、本当の事じゃない」
 ガンヒョンは自分の口を押さえている兄弟子の手を振り払い、今度はささやき声で言った。
「五人の妃のうち誰かがお子を産めば王太弟殿下はその身分をただの王子に戻されこの王宮を出て行くことになるわ。そうなればご生母の西の皇太后も王宮に居る必要はなくなるでしょう?」
「そりゃそうだけどさ…」
「それにしても意外だったわ」
「何がだよ」
「王陛下はチェギョン様を選ばなかった…」
「チェギョン様?ああ、お前が担当したあの端っこに居るお嬢様か」
「所詮は母親の言いなり…か?」
 ガンヒョンの独り言は兄弟子には聞こえなかったらしく怪訝な表情を返された。ガンヒョンは玉座に居る柔らかな笑みを浮かべている王をじっと見つめる。その両隣を見る。東の皇太后は安どの表情。西の皇太后は無表情で何を思っているのかはわからないが、おそらくガンヒョンの想像通りの事を考えているのではないかと思われた。さらに王太弟は…。
「…?」
 ガンヒョンは思わず目を凝らした。王太弟シンは何か楽しそうにというか何かを企んでいるかのような表情をしている。いや、他の〈人〉が見れば無表情の部類に入るだろうが、あれは何かを…。そう思いさらに驚きで目を見開いた。
 王太弟の後ろに隠れるようにしてこの場に本来居るはずのない者たちの姿が見えるではないか。
「先輩」
「何だ?」
「先輩の担当したご令嬢も妃には選ばれませんでしたよね」
「ああ、そうだな。せっかく名を高める機会だったってのに」
「次の機会が欲しければすぐにこの大広間から抜け出したほうがよさそうですよ」
「はあ?」
 ガンヒョンは兄弟子の袖を引き、強引に出口方面へと誘う。
「おい、ガンヒョン」
 玉座の方を振り返る兄弟子には、妃に選ばれた令嬢たちが玉座に向かって順番に上っていく様子が見て取れた。確かに自分の担当した令嬢はその中には入っておらず、いまだに妃候補たちの列の中に居る。それでも一代に一度限りの立后の儀だ。次の機会なんて待ってたらとっくにその命は天に召されてる頃に違いない。それにこの先、自分の住む国を治める王の顔をじかに見ることは叶わないだろう。だから最後まで見たかったのだ。
 王宮の警備隊がどういう動きをするかだなんて知ったことではない。だからこの大広間に最初入ってきたときよりも入り口に立つ護衛隊員の数が増えていたとしても気にしない。まして、妃に選ばれた五人が玉座へ向かう階段に足を掛けた辺りで数名の隊員が素早くその背後に付くのを見ても、妃となった彼女たちの護衛だろう、くらいにしか誰も思わなかった。だから誰も咎めるようなことは愚か声を上げるものもいなかった。兄弟子だってそうだ。未だ自分の袖を強く弾くガンヒョンが鬱陶しく思え振り払おうと腕に力を込めた。
「先輩、早く…」
 ガンヒョンがそう言って入り口の扉に手を伸ばしかけたが。警備隊員が持つ槍で威嚇されそこから先へ行くことが出来ない。何かが起きる。
 ガンヒョンは掴んでいた兄弟子の袖を離した。やっと話してくれたかと安どした兄弟子が襟を正し玉座の方を改めてみた時だった。


「「「きゃーーーー!!!!」」」


 玉座に上ろうとしていた妃たちが悲鳴を上げる。なぜならその身体を複数の警備隊員によって拘束されているからだ。さらにそれを見ていた選ばれなかった妃候補たちからも叫び声が上がった。さらに居並ぶ臣下たちからも声が上がる。
ドンソクは慌てて巻物を下に置き王をかばうようにその前に飛び出した。
「いつの間に…!」
 剣を持った王宮警備隊の者たちが大勢姿を現し、広間に居る人々を威嚇し始めた。王を護るはずの王宮警備隊隊長がすぐそばに控えているはずなのにその姿は見えず、こうしてドンソクが王の前に立っているのだがいかんせん内官で丸腰である。自分の身体を張ってでも…。思ったその時だった。剣を握るかすかな音。慌てて振り返れば。そこには、王宮警備隊の隊長と隊員のギョンがいて、彼らはその手に鞘から抜いた剣を持っている。そしてそれは二本とも、王の首元にあてがわれていた。




2022-04-24 (Sun)

【夏宵奇譚】第38章

【夏宵奇譚】第38章

【第38章 神との条件】 王宮全体が騒がしい。 間もなく、この国の王の妃が決まるのだ。それはもっともなことで、長い年月掛けてこの地に結界を張り続けてきた魂魄はようやくその時が来たことを悟っていた。いつの世もつかず離れずにいた神界の魂を持つ者が、漸く互いに認識しあったのだ。 己をこうして閉じ込めた〈彼〉に最初こそ怒り心頭であったが、時が進むにつれそれも悪くないと思い始めるようになったのだ。時の王が知...

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【第38章 神との条件】

 王宮全体が騒がしい。
 間もなく、この国の王の妃が決まるのだ。それはもっともなことで、長い年月掛けてこの地に結界を張り続けてきた魂魄はようやくその時が来たことを悟っていた。いつの世もつかず離れずにいた神界の魂を持つ者が、漸く互いに認識しあったのだ。
 己をこうして閉じ込めた〈彼〉に最初こそ怒り心頭であったが、時が進むにつれそれも悪くないと思い始めるようになったのだ。時の王が知らずして、時の彼女がこの地に足を踏み入れた最初に、彼らの真意を知ったから…。

――間もなく私の役目も終わる。

 ゆるぎない結界の中央でその魂魄は、見えてきた細い光の糸にゆっくりと手を伸ばした。



 妃候補たちが正殿の広間に向かった。後宮の女官たちはそれぞれ忙しく動き回っているが、この部屋だけは普段と変わらぬ落ち着きを見せていた。
「チェギョン様のお世話をする女官はもともと私一人でしたので」
 そう言ってハヌルは自称「猫の世話係女官」をまっすぐ見据えた。
「それに、この部屋は後宮の一番奥に位置しています。さすがの王も、この部屋まで使用を許可する側室はお迎えにならないでしょう」
「そうね。流石のおじい様も後宮の部屋全部を埋め尽くすほどの側室はお持ちではなかったわ」
自称「猫の世話係女官」…ヘミョンは大きく一つ息をついた。ハヌルは視線だけで今いる部屋の中を見渡した。
「私の、星見として引き継いだ記憶の中に、何度かチェギョン様が王宮に居られたときの物がありました。ある時は女官として、ある時は下働きの下女として、ある時は今回と同じく妃候補として…そしてある時は側室のお一人として…。その際に出入り、または使用されていたお部屋がこの場所でした」
「そうだったのね」
「ですから、今もこの部屋はこのままを維持するよう努めておく所存です」
「あのね、ハヌル」
 ヘミョンは居住まいを正しハヌルをまっすぐ見た。どこか違和感を覚えハヌルが少しだけ目を細めた。星見として彼女を観ればやがて知る事実。
「…ヘミョン様、ですのね」
「あら、流石は星見ね」
「気の流れが元に戻っておられます。炎帝様は…ああ、もう〈人〉の世にはおられないのですね」
 最後の方は寂しそうに呟くハヌルにヘミョンは大きく頷いて見せた。
「この国がどうやって存続してきたのか、それが神々の世界と大きく関わっている事も、西王母様やお母様から聞いたばかりなの。この国にずっと昔から伝わってきている天界草子は本当に存在する世界の事なんだってこともね。それに、星見の生まれるわけやその仕組みも全部、西王母様から教えていただいた」
 ハヌルはヘミョンの傍らに座る猫のソラを見やった。それを見てヘミョンが小さく笑う。
「…だって、信じるしかなないでしょう。私の中に炎帝様が存在していて、シンは青帝様の生まれ変わり。チェギョンは西王母様の末娘の紫仙女だったっていうじゃない。西王母様は私の額にその指先を触れただけで、ものすごい記憶と情報を私の頭の中に流れ込ませたのだもの。人にはできない仕業だわ。でもね、ハヌル」
 そこでヘミョンの声が強張った。その顔には柔らかな笑みは浮かんでいるが、恐ろしいほどの怒気を発しているのがわかる。
「神だからと言って〈人〉を〈人〉の世界を良いように利用するのは間違ってると思わない?」
「な…」
 ヘミョンの中から炎帝の存在は全て失せている。それなのにここまでの気を放つヘミョン。さすがのハヌルもヘミョンの花月に押され体が強張って動けない。声を上げようにも声が出せない。
「星見の予言。青帝様と紫仙女の物であってこの国の物ではなかった。それは別にどうでもいいのよ。結果としてこの国は繁栄し、この大陸では押しも押されぬ強国となったのだから。それなのに、先代の星見が何をしたのか…。神が〈人〉の世を掻きまわしたおかげで、私たちは…」
 突然大きな音が部屋の中に起こった。
 それが引き金となったのか、ヘミョンの発する気は無くなりハヌルも動けるようになった。
「何の音?」
 音のする方に目をやれば、そこにはチェギョンの琴があった。壁に倒れないように立てかけてあったはずだった。それが床に転がり、絹を使った弦は数本が切れていた。琴に填められていた青い石が部屋の中に差し込む太陽の光を受けて輝いている。
 ハヌルが慌てて駆け寄るも先に、猫のソラが琴に駆け寄った。そして、その青い石に触れた瞬間。西王母の姿がそこにあった。
 西王母が〈人〉の世で人型を保つためにはかなりの量の神力が必要のはずだ。これまでは炎帝をその身に秘めたヘミョンの傍らに居ることで少しずつ蓄え、年に一度の星祭りの一日のみ人型を見せていた。その他にも、わずかな神力を使い数分のみその姿を見せていたこともあるが…。
「西王母様…!これは一体…」
 西王母は弦の切れてしまった琴をそっと抱き上げる。
「炎帝がヘミョンの身体から完全に消え去りどうしたものかと思っておったが、青帝が覚醒したおかげで直接神力を受け取ることが出来るようになった。それでも我がこうして人型を保つにはまだ不十分。しかし…ここにあったのじゃな。我の力の源が」
「その琴が?」
「いや、正確にはこの石である」
 琴に填められた青い石。西王母はその石を琴から取り外し太陽の光にかざした。
「我が天界で切り落とした爪が閉じ込めてある。そうか…天帝は…」
 チェギョンから聞いていた。その琴は父親が屋台で手に入れたものだと。西王母の仙力の源が閉じ込められている石を填め込んだ、そのように貴重な物が何故そのような場所にあったというのか。もしや、それさえも計られた事だったのか。
「一体、どれほどの条件を課しておられたのか」
 ハヌルが思わずつぶやいた。
「西王母様」
 琴を手に感傷に浸っているかのように見える西王母とハヌルにヘミョンが声を掛けた。
「妃候補たちの行列は後宮の正門を通り正殿の正面から殿閣に入ります。そこから大広間に入り立后の儀は行われるわけですが…」
「ヘミョン。そなたはミンからチェギョンを守れと言われておったな。ここで話をしていて間に合うのか?」
「神が掻きまわしたおかげでこの王家は幾度となく道を踏み外しそうになった。それを星見の予言が軌道修正してきたのだと、私は思っています。それが、先代王の時代についに壊れた。星見が神の因子をもって〈人〉の世に介入したのです。私は神の手からこの王家を取り戻さねばならない」
「ヘミョンよ、天界の関係者がこれほどまでに多く揃った時代はなかった。さらには、ついに青帝と紫仙女が同時期に覚醒したのだ。我にとっては天界の理を回収せねばならない出来事なのだ。しかし…もとはと言えばその原因を作ったのは〈人〉が我ら神の世界を…そなたの言う掻き回したことが原因であるぞ」
「ええ、ですから、私は。これから起こるすべての出来事で互いの世界の理を回収し、今後はいたずらに互いの世界に加入しないことを望むのです」
「私…とな。そなたら〈人〉がこれからあの殿閣で何を起こそうとしているのか知っている…我はそう言ったな。その事に我は介入しない、とも。ただし、紫仙女が身に何かが起こるのであれば、我はこの微力な神力を使うこともやぶさかではない、とも言った。
 さてヘミョン、再度問うぞ。ここで話をしていて間に合うのか?」
 ヘミョンは笑みを浮かべて頷く。
「近道は案外近くにある物です。私はこの国の王女ヘミョン。この国を統べる王家の正当なる継承者です」
 西王母は穏やかな眼差しでヘミョンを見つめる。
 それまで口を挟むことすらできなかった星見…ハヌルもそこで漸く我に返る。
「急ぎましょう」

 チェギョンの部屋から庭に出る。その先を行けば大きな岩があり、その奥の竹林の向こう側は離宮。岩に向かって左に行けば、正神殿の手前に出る。そこから正殿は目と鼻の先。妃候補たちの行列が大広間にすべて入り切る前にたどり着くことが出来る。
 さすがに、正殿の近くともなれば護衛の兵士や内官に女官の姿も多く見られる。彼等の目に触れぬよう大広間に入るのは無理のような気がする。しかし、西王母が軽く腕を振り上げると三人の姿は誰の目にも映らないようになった。
「これくらいは介入のうちに入らぬであろう」
 ちらりとこちらを見たヘミョンに西王母は軽く言い放った。
 大広間にはすでに王と妃候補を覗くすべての関係者が揃っており、妃候補たちの到着を今かと待ち構えていた。正面にある玉座は一段高いところにあり、その左右には皇太后が二人と王太弟が座っていた。姿を消したヘミョンたちはこっそりと王太弟…シンの席の後ろに身を隠すようにして控えた。

 やがて、大広間の入り口に居た内官が妃候補たちの入場を告げる。美しく着飾った妃候補たちが姿を現すと会場内から感嘆の声が漏れる。


 いよいよ始まるのだ。
 




 桃の木々の間に建てられた東屋には四人の姿があった。
 白帝と炎帝、東王父、それに北斗星君。
 〈人〉の世界で見聞きしてきたことで思うところがあるのだろう。炎帝はじっと北斗星君を見つめている。その視線を受けつつ、北斗星君は終始その表情を穏やかなまま崩さないでいる。
 今は、白帝と東王父が話をしている。西王母と炎帝が〈人〉の世に降りてからこの天界で起こったこと。百花の狂い咲きから百花の精霊が〈人〉の世に落ち、その後始末ともいえる責任を百花仙子が取る形で今もなお〈人〉の世に居る事。
「天界の百花は九八番目までがすでに帰還している。統率すべき百花仙子が残り一つを取り戻せばその件に関しては全てが終わる。天帝はそれをもって百花仙子を赦されると仰せだ」
 白帝の話を受け、東王父も大きく頷く。
「西王母が不在となって、百花もこのようなことになり、一時はどうなるかと思えたが…この蟠桃園は仙界の一部ということもあり無事で何よりだった」
「天界の四方を守護する者のうち青帝と炎帝が不在、さらに西王母も不在という中で、まさかあの百花仙子があのような大それたことをしでかすとは」
「赦されて天界へ戻ってきたとして…天帝は代替わりもせずそのままで置くわけにはいくまい」
「神の代替わりともなれば…おそらくはすでに天帝は次の百花仙子を決めておられるのではないか?」
 白帝と東王父の会話は続く。その間、炎帝も北斗星君も一言も発しないでいる。そのことに気づいた東王父が「そうだ」と思い出したように一言発すると、その視線を北斗星君へと向けて言った。
「赦される…と言えば。こうして炎帝も無事に天界へ戻ってきたことだし、青帝がこの天界へ戻るための条件もあとわずかで整うのであろう?なあ、北斗星君」
 条件。その言葉が東王父より持ち出され、炎帝が思わず身を乗り出した。しかし、北斗星君は身じろぎ一つせず、東王父の方を見るでもなく、そっと瞼を閉じるのみ。炎帝がなにやら声を発しようとしたのを隣に座る白帝が制した。東王父は話を振ったはずの北斗星君に答える気がないのを重々承知した上でさらに話を続ける。
「北斗星君。神が人を殺めればその身は〈人〉の世に落とされる定め。それは神力も仙力も持たぬ〈人〉や〈人〉が暮らす世界を見守る我々神が〈人〉に対し行ったとされる罪に対する罰。確かに、青帝はまだ若く、これから先も天界の四神として働いてもらわねばならぬ身。天帝もそれ故特別に恩赦を与えた。あの事は紫仙女の命を奪われたことに対する神としての裁きの一つであると意味づけて。しかし…そなたは条件を課した」
 しばしの沈黙。
 そしてようやく北斗星君は瞼を開き、顔を上げ、声を発した。
「その通りです、東王父。これは天帝も納得済みの条件です」
「…代替わり…か?」
 北斗星君は東王父の問いには答えず、やんわりとした笑みを浮かべ水鏡のある方を指差して言った。
「間もなく青帝が〈人〉の世で動くようですよ」
 白帝に制止されていた炎帝がついに我慢ができないとばかりに立ち上がって叫んだ。
「北斗星君!ならば…すべて天帝もご存じであった、そういうことなの?」
「一連に関して、間もなく終焉を迎えるのです。理は続くのですよ」
 星見の持つ予言の一節。炎帝は急いで水鏡の元へ走った。



2022-03-13 (Sun)

【夏宵奇譚】第37章

【夏宵奇譚】第37章

【第37章 残された者】 ヘミョンが炎帝としての記憶を一切失っている事。その事実に愕然としたのは西王母だけではなかった。「青帝の覚醒が…もしや炎帝の記憶の消去がきっかけなのですか?」 シンは西王母に向かって尋ねた。「わからぬ。〈人〉の世にあって、炎帝と青帝が同時に存在していたことが初めて。ここまで天界のあの出来事の関係者が〈人〉の世に揃ったのもまた初めて」 西王母はそう言うと唇を引き結び小さく唸っ...

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【第37章 残された者】

 ヘミョンが炎帝としての記憶を一切失っている事。その事実に愕然としたのは西王母だけではなかった。
「青帝の覚醒が…もしや炎帝の記憶の消去がきっかけなのですか?」
 シンは西王母に向かって尋ねた。
「わからぬ。〈人〉の世にあって、炎帝と青帝が同時に存在していたことが初めて。ここまで天界のあの出来事の関係者が〈人〉の世に揃ったのもまた初めて」
 西王母はそう言うと唇を引き結び小さく唸った。その時、西の皇太后が何かを思い出しながらつぶやいた。
「チェギョンが…覚醒のきっかけには条件がある…そう言ってなかったかしら」
 そうだ、確か星祭りの翌日。紫仙女として覚醒したチェギョンはそんなことを言っていた。
「ならば、これも…青帝の覚醒の条件の一つだったと申すのか」
 小さく体を震わせ手を固く握りしめる西王母。その姿を見ていたヘミョンが目を細める。
「西王母…さま?」
 ヘミョンに己の名を呼ばれ、はっとして西王母はヘミョンの肩を掴んだ。
「ヘミョンよ、そなた…どこまでの記憶があるのじゃ」
「星見の予言に出てくる炎帝と言う者が何をしているのかはわかりませんが。私はこの国の正当なる血を引き継ぐ王女ヘミョンです。今王座に座っているのは名ばかりの王。同じく正当な血を引き継ぐシンは、その化けの皮を剥ぎ正しい血の元に王の位を取り戻すべく動いています。先ほどの会話に出てきたチェギョンなる者は妃候補の一人ですね」
 ヘミョン以外の3人は、その後もヘミョンの口から出るこれまでの話を聞いて、炎帝はすでにヘミョンの中から完全にその記憶と共に消え去ったことを確信せざるをなかった。
 不思議なことに、ヘミョンはと言えば。炎帝以外の王女としての記憶は失われておらず、女官に扮して後宮に出入りをし、チェギョンと顔見知りであったことは覚えている。紫仙女として覚醒後、しばらくこの殿閣に身を潜めていたことは覚えていなかった。
 それに、シンと共に王の執務室で聞いたことも記憶になかったのだ。それ故、シンが星見の予言に出てくる青帝だと、たった今、シンの口から語られ、目の前の女性が西王母だと名乗ったことで初めて知ることになった。
 愛玩動物だと思っていた猫の空の正体が〈人〉の世での細胞簿の仮姿であったことを知り、ヘミョンはただひたすらに平服した。
「ヘミョンよ、もう良い。顔を上げよ。そなたの…いや、そなたの中に存在していた炎帝の力があってこそ、我は此処で穏やかに過ごすことができていた。青帝が覚醒した今、我は常にこの姿をたもつごとができる。もっとも、神の力はこの爪が元に戻らぬ限り微々たるもの」
 西王母の神力はその両の手の指にあった美しい爪に込められ、〈人〉の世に降りるにあたってすべて切り落とされて天帝の元で大切に保管されている。
 覚醒前のヘミョンからはわずかな神力しかもらえなかったため、元の姿を模るのはほんの少しの時間だけ。特に今年の星祭りでは東の皇太后の前でやらかしたこともあり、かなりの力を消費した。ようやく炎帝が覚醒し、その神力も徐々に戻りつつあったところでこれである。
 炎帝と入れ替わりで青帝が覚醒したから良かったが…。
「何れにせよ。青帝と紫仙女は巡り会っておらぬ。覚醒した者同士、確かめ合わねばなるまいて」
「それにしても、時期が悪すぎました。立后の儀は…」
 西の皇太后はちらりとシンを見やった。
「母上」
 シンは西の皇太后を見て一つ頷く。
「青帝としてなさねばならないこともありますが、まずはこの国の王子としてなすべきことするつもりです。チェギョンは…偽りの王の妃にはさせません」
 シンの言葉を聞いて西の皇太后は安どのため息を漏らした。
「そうであろう。まずは〈人〉としてなすべきことをせよ。〈人〉の理に我ら神は介入しない」
「はい。西王母様」
 それからシンはヘミョンに向きなおった。
「姉上。私はこれより例の計画通りに動きます。姉上にはチェギョンを…彼女を守っていただきたい」
 ヘミョンは素直に頷いた。それを見てシンは踵を返し部屋を出て行く。
 しばしの静寂が部屋の中を支配した。

「…さて」
 その静寂を破ったのは西王母。
「そなたらの計画とやらは我も知っている。〈人〉の理に神は介入しない。しかし、既にわが娘である紫仙女が立后の儀とやらに関わっておる。紫仙女が身に何かが起こるのであれば、我はこの微力な神力を使うこともやぶさかではない。もっとも…すでにこの王宮内に我の他にも神の気配を感じておる」
「あのぅ」
「なんじゃ、ヘミョン」
「貴女様は西王母様…。天界草子に出てくる天帝の妃で仙女を統括しているお方なのですか?」
 西王母は一瞬目を見開き声を飲み込んだが、すぐに柔らかな笑みを浮かべると大きく一つ頷いた。
「そうであったな。ヘミョンよ、我がなぜここに居るのか、今のそなたにはあずかり知らぬ事。かいつまんで話を聞かせる故、しかと心に留め置くが良い」

 西王母から聞かされたこれまでのいきさつ。話が進むにつれ、ヘミョンの顔色が優れない。
「私…西王母様が変化なされたお姿と気付かずあれこれ無体を働きました。どうかお許しくださいませ」
「謝らずともよい。猫の世話係と称して身分を偽り、この王宮内を連れまわしてくれたことは我の楽しみの一つでもあったのだから」
 炎帝としての記憶がないのだ。〈人〉として存在するヘミョンがかしこまるのも無理ないこと。
 そんな二人の様子を黙ってみていた西の皇太后の顔にも笑みが浮かぶ。そこで彼女は立ち上がり未だ寝起き姿のままのヘミョンの前に歩み寄った。
「さあ、支度をしましょう。今日の儀式には王太弟の母として私は出席せねばなりませんが、貴女は特に出席を求められていません。猫の世話係として女官たちの中に交じりなさい。事が起きたその時、チェギョンを守るのです」
 すると、西王母が再び猫の姿に戻った。可愛らしく鳴き声を上げヘミョンの足元にすり寄る。
「あっ…西王母様?」
「さあ、猫のソラを連れてお行きなさいヘミョン」
 少しばかり戸惑ったが、ヘミョンはソラを抱き上げる。
「私もできることをします」
「頼みましたよ」
 ヘミョンは笑みを浮かべると西の皇太后の部屋を後にした。



 後宮。
 半年前、妃候補たちが集まってきた時同様、ここは表も裏もごった返していた。
 妃に選ばれても選ばれなくても、これまで使ってきた部屋からは退去せねばならない。妃に選ばれると自信たっぷりの者は女官を何人も侍らせ儀式の準備に忙しい。選ばれることは無いとすでにあきらめている者の中には女官としてこの王宮に留まることを選んだものはすでに荷造りを終え、儀式が終わってすぐに移動できるよう準備を整えている。王宮を出て実家に帰ることを選んだ者も同様に部屋を引き払う準備を終えている。万が一の可能性に掛けている者は、荷物をまとめるにも踏ん切りがつかず、とりあえずは儀式のために美しく着飾ることにし、手の空いた女官を呼びつけてその準備を手伝わせていた。
 
 チェギョンは…。
 ハヌルが用意してくれた儀式用の衣装を身に着け、今は鏡の前に座って化粧を施されていた。
「さあ、どうかしら?」
 チェギョンは瞑っていた瞼をゆっくりと開いて鏡の中の自分を見つめた。
「最後に紅を付けるわね」
 そう言ってチェギョンの顔を覗き込んだのは、絵師のガンヒョンだった。
 妃候補たちの絵姿を描いた絵師たちも立后の儀に参加することになっていた。だから後宮に顔を出したのは不思議な事ではないのだが、着替えるというその場面でやってきたガンヒョンは「化粧は自分にさせてくれ」とハヌルに懇願したのだ。
 広間に飾られているチェギョンの絵姿を描いたのだ。完成した絵と現実の自分との差に恥ずかしくなるほどだったが、鏡の中に居るチェギョンはまさにその絵姿通りに美しく着飾っていた。
 ガンヒョンが紅を筆につけて、それからチェギョンの唇にやさしく塗っていく。鮮やかな紅が乗ると、さらに輝いて見える。
「完璧よ!この姿を私は絵にかいたのだもの!」
 満足げに微笑むガンヒョンと鏡越しに目を合わせる。
 チェギョンは今の自分の姿がかつての自分の姿と重なって見えていた。蟠桃園で彼と出会った、あの宴の時の自分と…。

「とてもお綺麗ですよ、チェギョン様」
 そばで見ていたハヌルも微笑んでいる。
「間もなく立后の儀が始まります。広間にはお付きの女官は立ち入りを許されておりません。広間の外、控えの間でお待ち申し上げております」
「今までいろいろありがとう、ハヌル。貴女が居てくれたから、私はここまでこれたの。一つだけ…お願いがあるのだけど」
「何でございましょう」
「琴は…貴女が持って居て頂戴」
 いったい何のことだろう?ハヌルはそう考え返事を返すのが一瞬遅れた。
「琴は、チェギョン様の物ではございませんか」
 しかし、チェギョンは美しい笑みを浮かべたまま何も言わない。
 部屋の外が一段と騒がしくなった。どうやら儀式のために順番に広間に向かう準備が始まったらしい。
「それじゃ、私は一足先に広間に入っているわ」
 ガンヒョンは手早く化粧道具を片付けると部屋を出て行く。
「チェギョン様…いいえ、紫仙女様。何をお考えなのですか」
「星見である貴女に、私の琴を預けたいのよ」
「返事になっておりません」
「大丈夫。きっと…私は王宮から出て行かない。ううん…出ていけないのよ」
「何をおっしゃっているのです…」
「予言は成就する。南斗星君と交わした約束が叶えられたら、星見はどうなるのかしら…」
「チェギョン様」
 ハヌルの呼ぶ声に反応せず、チェギョンは部屋を出る。既にほかの妃候補が集まっているのが見えた。チェギョンはゆっくりとそちらに向かって行く。途中、出会った女官たちがチェギョンの姿を見て驚きで立ち尽くす。他の妃候補たちも、その場に現れたチェギョンを見て驚きを隠せない。

「こんなに綺麗だったなんて」
「あら、着飾ればだれでも相応に見えるでしょう?」
「それにしても今までどうして…」

 ざわめく妃候補たちの先頭には第一位の妃として間違いないと自負するミリの姿。彼女もチェギョンの美しさに驚いたが、既に結果は決まっているのだ。今更着飾ったところで覆るはずもない。
 やがて、案内係の内官がやってきて、彼を先頭に広間に向かって妃候補たちは歩き出した。後宮から正殿にある広間まで、着飾った妃候補たちの歩みは遅い。最後のチェギョンが後宮の門をくぐるのを見届けると、その場にいた女官たちはいっせいに各部屋に向かって引っ越しや退去のための準備に取り掛かった。
 しかし、ハヌルだけは先ほどチェギョンと交わした会話が気になって仕方なく、しばらくその場に立ち尽くしていた。

「そんなところに突っ立って、どうしたのよハヌル」
 不意に背後から声を掛けられ振り向けば、そこにはソラをその腕に抱いた女官姿のヘミョンが立っていた。
「ヘミョン様!」
 思わず大きな声でその名を呼んでしまった事に築いたハヌルは、思わずあたりを見渡した。幸いにもこの声を聞いたものはいないようだ。
「何故、猫の世話係の貴女様がこちらにいらっしゃるのです」
「チェギョンの姿を見に来たのだけれど、一足遅かったようね。ハヌルにも話があったからちょうどいいわ」
 ヘミョンはそう言うと勝手知ったると言うふうに、ハヌルを先導する形で後宮内のチェギョンの部屋へと向かった。




2022-02-13 (Sun)

【夏宵奇譚】第36章

【夏宵奇譚】第36章

【第36章 それぞれの現在】 離宮、西の殿閣。 西の皇太后の部屋の近くに王女ヘミョンの部屋もある。 ヘミョンが倒れたということは外部に漏れないようにしているためか、夜明けの殿閣は数名の女官が行き来する気配を感じるのみ。 立后の儀の朝である。早朝からシンがこの殿閣を訪れることに対し、警備の者も内官や女官も特に不信感を持つ者はいない。「母上、失礼します」 西の皇太后の私室へと通じる扉の前で声を上げると...

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【第36章 それぞれの現在】

 離宮、西の殿閣。
 西の皇太后の部屋の近くに王女ヘミョンの部屋もある。
 ヘミョンが倒れたということは外部に漏れないようにしているためか、夜明けの殿閣は数名の女官が行き来する気配を感じるのみ。
 立后の儀の朝である。早朝からシンがこの殿閣を訪れることに対し、警備の者も内官や女官も特に不信感を持つ者はいない。
「母上、失礼します」
 西の皇太后の私室へと通じる扉の前で声を上げると、早朝とは言え中からはっきりとした声色の返事が返ってきた。
 扉をそっと押し開けて、滑り込むようにして部屋の中に入る。
 皇太后の寝台の上には、ギョンから聞かされた、倒れたという姉ヘミョンの姿があった。その傍らには、おそらく一睡もしていないだろう母親の姿も。
「シン、体調は?」
「ご心配をおかけしました。今はもう大丈夫です」
「そう、良かった。でも…」
 西の皇太后はヘミョンに視線を移した。
「昨夜、ここに運び込まれたヘミョンはずっと眠ったままなのよ…。そう…眠っているだけなの」
 「仕方のない子ね」最後にそう小さくつぶやき、うっすら笑みさえ浮かべた西の皇太后は眠るヘミョンの頭をやさしく撫でた。
「眠っている…だけ…」
 シンは自分が昨日倒れてから先ほど目が覚めることまでを反芻する。先に炎帝として覚醒していたはずのヘミョンだが、その記憶の所々に虫食いのような欠落があるのだと話していた。自分とほぼ同時に倒れたことを考えれば、ヘミョンもまた、炎帝として完全に覚醒するのではないか。そう思えば、今は自然に目が覚めるのを待った方が良い。幸いにも、立后の儀は昼過ぎから始まる。
「貴方の方は全ての準備は整ったのかしら?」
「はい、母上。立后の儀は星見の予言が成就する場となるでしょう」
「失敗は許されません」
「もちろん」
 母と息子は互いの目を見つめ合い、不敵に笑みを浮かべる。
「そういえば…。先ほど母上は、姉上は此処に運び込まれた、とおっしゃっていましたが。姉上はどこで倒れたのです?」
「それが…後宮の一室だったのよ」
 シンは思わず眉をひそめた。
「…妃候補ヒョリン嬢の部屋だったの。ただ、女官に支えられて、何とかここまでは自分の足で戻ってきたようなものなの。私の顔を見るなりそのまま…この通りよ」
「ヒョリン嬢やその女官は何と?」 
「黄仙女が大丈夫だと言っている、の一点張り。問い詰めようとしたのだけれど、ソラがまるでその女官をかばうように私と彼女の間に座り込むものだから、それ以上は何も…」
「黄仙女、ですか」
 シンにはその名が誰の事を指しているのかわかっていた。昨日から怒涛の用に流れ込んできた自分の〈正体〉が良く知るものだ。七仙女の一人、紫仙女とは特に仲が良かった仙女だ。そして彼女は…。
「蟠桃園の番人…」
 西の皇太后が不思議そうにシンを見つめた。
 青帝として覚醒した今ならすべて納得がいった。妃候補として後宮に入宮してからチェギョンに寄り添っていたことも、花見の宴や星祭りの宴でチェギョンの琴の音に合わせて舞を披露したことも。そして何より、ヒョリンが身に着けていた装飾品、あれは黄仙女も身に着けていたものだ。金で作られたそれは天帝より授けられたもので、そこに西王母から授けられた紅玉が散りばめられている。そして、それは、蟠桃園の番人である黄仙女が使う神具であり、蟠桃園に迷い込んだ〈人〉を元の世界に戻す役目を持っていた。
 シンは思わずため息を漏らした。
もっと早くに覚醒していたのなら。チェギョンを王の妃候補になどさせなかった。そうであれば東の皇太后に目を付けられることもなかったのだ。そうすればチェギョンは…紫仙女は最初から自分のものになったはずだった。
「シン?」
「母上。姉上は炎帝としてすでに覚醒していました。私は昨夜…」
「青帝が目覚めたのですね」
「そうです」
 西の皇太后の目にはうっすらと涙が浮かんでいる。かつて、自分の胎内に青龍が宿る夢を見た。生まれてきた王子には青龍の守護が授けられ、それが星見の予言の一部を担う者であることを知った。
「ヘミョンが目覚めさえすれば、この王宮に長らく居座ってきた偽りを正すことが出来るでしょう」
 西の皇太后が寝台の上のヘミョンに視線を移す。すると、ヘミョンが小さく呻きその身体を少しだけ動かした。
「ヘミョン!」
「姉上!」
 西の皇太后とシンが慌ててヘミョンの元に駆け寄る。ヘミョンの瞳がゆっくりと開かれた。
「ヘミョン。気分は?」
 西の皇太后の柔らかい声に反応し、ヘミョンはゆっくりと顔を傾ける。
「…ずいぶん長い夢を見ていたような気がするわ。あら…ここは…お母様のお部屋?」
「そうよ。昨日、後宮からこの部屋に来たのよ。覚えてない?」
「昨日…後宮…」
 ヘミョンがゆっくりと起き上がる。そして自分の胸に手を置いた。そして小さく首をかしげる。
「姉上」
 シンがヘミョンの元に跪き、そっと手を取った。
「お待たせしました。青帝として覚醒しました」
「シン?青帝が目覚めたの?」
「…姉上?」
 なにやらヘミョンの様子がおかしい。
「星見の予言がまた一つ成就されたのね。ということは、炎帝はすでに目覚めているということね」
 シンは母である西の皇太后を振り返る。彼女もまた、娘の異変に気付き顔色を変えていた。
「星見を…」
「駄目よ。ハヌルは…女官長のスヨンさえも、今日は立后の儀があるの、呼び立てることはできないわ。ましてやヒョリン嬢を離宮に呼ぶことも難しい」
 そうだ、これから半日もせずに立后の儀が始まる。後宮は早朝とは言え大忙しの中にある。
「今日は立后の儀なの?」
「そうよ、ヘミョン。あなた本当に昨日の事は何も覚えていないの?」
 ヘミョンは少しの間、何かお思い出そうと眉をひそめて一点を見つめていたが…。
 かすかに鈴の音が聞こえた。
 音のする方を見れば、白い猫…ソラがゆっくりと歩いてくるのが見えた。
「西王母様」
 シンが足元までやってきたソラを恭しく抱き上げた。すると、猫の姿がまばゆく光り、やがて光は人の形となって落ち着いた。
 そこには西王母が立っていた。
「青帝が目覚めたおかげで天界の気を取り込むことが出来る」
 西王母は寝台の上のヘミョンの顔を覗き込む。ヘミョンはまるで知らない人間を見るかのようにその身を固く強張らせていた。
「む…。炎帝が…消えた?」
「一体どういうことですか?」
「ヘミョンよ。そなた、昨夜は黄仙女と共におったそうじゃが、そこで何があった?」
「黄仙女?誰です…それは。いえ、そもそも貴女は誰なのです。お母様、このお方は一体…!」
 
 ヘミョンの中から炎帝が消え、それに伴い天界に関係する記憶の一切が抜け落ちていた…。






 天界の一部である仙界に住まう仙人のうち、女仙を統べるのが西王母であり、彼女は未来を司る神でもあった。彼女が管理する蟠桃園の桃の実は未来へとその命を繋ぐ物。それ故に神が守らねばならない貴重な物でもある。
 蟠桃園は主不在の中、相も変わらずその景色を淡い桃色に染め上げていた。この美しい景色を現在守っているのは、七仙女が一人である紅仙女。母である西王母の力を最も濃く受け継いでいるだけあって、蟠桃園が何者かに侵されることなく平和な時を紡いでいる。
 その蟠桃園の奥深くにある一本の桃の木の傍らには大きめの水盆が置かれている。西王母が〈人〉の世に降臨してすぐ、天帝の命によって東王父が設置した物。その水盆には水が張られ、鏡のように光を反射している。〈人〉の世を覗き見ることが出来る水鏡だ。
 普通の水鏡なら、ただ覗き見るしかできないのだが、天帝がわざわざ東王父に命じたのには訳があった。
 女仙を統べるのが西王母であるのに対し、男仙を統べるのが東王父である。彼は現在を司る神であり、天帝のよき友でもあった。
 現在を司る神として彼の作り出す水鏡は、〈人〉の世と天界を繋ぐ道を創り出すことが出来る。西王母や炎帝が〈人〉の世に向かうときにも使われたこの水鏡だが、〈人〉の世に水鏡は存在しないので天界に戻るには、その道を繋ぐための門が必要となる。その門を創り出すことが出来るのは黄仙女だった。天帝が彼女に授けた神具こそがそれ。もとは、蟠桃園に迷い込んだ〈人〉を元の世界に送ることがその神具の使い道だった。東王父の作り出した水鏡が〈人〉の世と道を繋げた時、黄仙女が神具を使えば門が現れる。門を開く鍵となるのは蟠桃の木の根元にある水晶。鍵である水晶が光るのを感じ取った東王父が、いよいよその時が来た事を知り、白帝と共に水鏡の傍らで待つ。

 水鏡の表面が不意にゆがんだ。
 先ほどまでそこに映し出されていた〈人〉の世界の景色がそれによって消えてしまった。
 しかし、それはあらかじめわかっていたことで、もうすぐこの場に道が繋がる合図にもなっていた。
 水鏡の表面は不規則にゆがみ続けている。やがてそれは渦を産み、そのまま空中で輪を創り出す。その輪が次第に大きく広がって、その中央から光があふれ出した。その光とともに姿を現したのは、朱い炎を纏った鳳凰。その姿を抱きしめるべく、白帝は両の腕を大きく広げる。水鏡から生み出された輪から完全にその姿を抜け出させた鳳凰は瞬時にその姿を人型に変えた。そして、飛び出した勢いのままその腕の中に飛び込んだ。

「お帰り、炎帝」
 
 白帝のやさしい声に炎帝はどこか気が抜けたようになり、その身体をしっかりと抱きしめた。

「ただいま…白帝。話さなきゃならないことがたくさんあるわ」
「うん、ちゃんと聞くよ」
「天帝の言う通り〈人〉は愚かな生き物だった。その〈人〉として何度も生まれ変わっていた青帝は天界に戻って来れるかしら」
「そうだね。それも含めて全部、君の話を聞くよ」
「ありがとう…」

 軽く咳払いの音が聞こえ、二人はすぐそばに東王父が立っているのに気づき頬を赤らめた。
「無事に帰って来れて何よりだ。天帝への報告もあるかとは思うが、まずは…」
 東王父が桃の木の影に隠れるようにして立っている者に視線をやる。白帝は炎帝を抱きしめていた腕の力を緩めた。炎帝の肩越しに見えるその神の姿に、白帝は目を細めた。その気配に気づいた炎帝も自分の後ろを見やる。
 その神は穏やかな眼差してこちらを見ていた。炎帝はその姿を見て身体を強張らせたが、それを白帝がなだめるように手のひらで優しく彼女の背を叩いた。
 炎帝が、どういうことかと視線だけで訴えれば白帝は困ったように笑みを返してくる。
「君の話を聞いた後に、君が居なかった間の事を話すよ。その場には、彼も同席させることになるけどね」
「わかったわ。私も彼には聞いておきたいことがあったの。何故〈人〉の世に降りて、〈人〉として存在していたのか」 
 彼…北斗星君は何をしようとしていたのか。本当に青帝と紫仙女を引き合わせるために行動したのか。それとも…。




2022-01-03 (Mon)

【夏宵奇譚】第35章

【夏宵奇譚】第35章

【第35章 桃の記憶】 正殿執務室。 いつも通り、執務机には王が座り書類に目を通しており、その傍らには、王を補佐する内官ドンソクの姿。時折、コン内官をはじめとする各部署の内官たちが入れ代わり立ち代わりやってきては新たな書類を追加していく。 立后の儀を明日に控え、王宮内は勿論の事、王宮の外も何かとざわついている。 先ほどまで、この場には王の生母である東の皇太后が居た。王にまつわる真実と共に、これから...

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【第35章 桃の記憶】

 正殿執務室。
 いつも通り、執務机には王が座り書類に目を通しており、その傍らには、王を補佐する内官ドンソクの姿。時折、コン内官をはじめとする各部署の内官たちが入れ代わり立ち代わりやってきては新たな書類を追加していく。
 立后の儀を明日に控え、王宮内は勿論の事、王宮の外も何かとざわついている。
 先ほどまで、この場には王の生母である東の皇太后が居た。王にまつわる真実と共に、これから王がなし得ようとしている事、そのためには例え生母と言えども邪魔は許さないという強い意思。それらを話して聞かせると、東の皇太后は全てではないにせよ、納得してこの場を去った。
 ドンソクは〈知る者〉となってしまった事により、〈人〉でありながら神々の世界の事、天界や仙界の事、様々な事実を受け入れることになった。本来ならば、目の前の王にこのまま仕えるというのはこの国を裏切る行為に他ならない。何故なら、この王はこの国の王族の血を全く持ちえていない。先代の王もその事実を知っていたのに、何故彼を次代の王として指名したのか。今のところ全くわからないことと言えばそれくらいだ。
 しかし、ドンソクにも確固たる意志があった。王がどんな血を引き継いでいるかは関係ない、その身が天界より遣わされたものである事、その他諸々を含めて、自分の主は目の前に居るこの王である、と。
 書類に署名をするために王が筆に手を伸ばした。その手が筆に掛かることなく動きが止まった。
「王陛下?」
 ドンソクが心配そうに眉をひそめる。
「誰かが力を使った」
 王の言葉にドンソクの目が見開かれる。
「一瞬、炎帝の気配がしたが、その後で天界の気を感じた」
「それは一体…?」
「関係者に気づかれないように結界を張っていたようだが、天界とこちら側の空間を繋げたのか…」
 王は不敵な笑みを浮かべた。
「問題ない」
 そう言って、再び執務に戻る。しかし、そばに控えるドンソクは訳が分からず動きが止まっている。
「まあ、明日になれば隠されたことのすべてが明らかになるだろう。その上で、シンがどう行動を起こしたとしても私がこの国の王でいることに変わりはない」
「しかし…私が思うに、王太弟殿下はご自分の正当性を主張されてくるのでは、と思います」
「そうだろうな。主張するだけで済めばかわいいものだが」
「他に何かが起こるとでも?」
「青帝がその力を使えば、この王国もろともただでは済まないだろうな」
 神の一人である四神が青帝。彼がその力を使おうものなら王国は愚か人の世すらただでは済まない。それなのに、目の前の王はちょっとしたいたずらが起こるかのような軽い口調なのが恐ろしかった。
 ドンソクはその表情すら平常心を保っているように見せていたが、内心は神の力がどれだけの物なのかに対する恐怖心で緊張していた。
「そのための、結界の張替えだ。彼女が新たな柱となれば、あの青帝も手は出せまい」
 最後の書類に署名がなされ、その傍らに玉璽が押される。その書類は他の書類といささか様子が違っていた。
 ドンソクはその書類を慎重に受け取ると傍らの筒に終い、溶かした蝋で封印を施した。
「本当に…この通りでよろしいのですね」
 ドンソクの声が微かに震えているのに気づいた王が薄っすら笑いを浮かべた。
「ああ、そうだ」
 ドンソクはその筒をある場所に保管した。明日までに誰の目にも触れてはいけないものだ。
「…これですべての準備は整った…」
 王はそう独り言ちると深い息を吐きだした。



 後宮。
 ほんの数日離れていただけなのに、自分の部屋に足を踏み入れ、壁に立てかけられるようにして置かれていた琴を見つけると、ひどく懐かしい気持ちになり胸が締め付けられた。
 チェギョンはそっとその琴に触れる。
 初めてこの琴と出会った時の事を思い出すと自然と笑みが浮かぶ。しかし、この琴と別れねばならなかった時の事も関連して思い出すとその笑みは消え失せてしまう。


『シン。桃は好き?』

――私はこの蟠桃園がとても気に入ってる。

『好きか嫌いかという以前に、俺の体は、桃は受け付けない。口に入れるどころか、触れるだけで蕁麻疹がでるんだ。だから、毎年星祭りが近くなると憂鬱になる。神殿で行われる儀式では、必ず桃が捧げものとして使われるからな』

――西王母様が招待した者しか足を踏み入れることは叶わない場所ではあるが、ここは貴女が生まれ出た始まりの場所でもあるから。

『私の大好きなあの人も、桃をとても気に入っていて、桃で作ったお酒が大好きだった…。だから、貴方が桃に触れることもできずにいることを悲しく思ったの』


 チェギョンの記憶の中で二人の会話が交差する。
「…不思議ね。今の私は貴方を疎んではいない」
 弦を人差し指で弾くといつもと変わらない音が出た。その音に人として言えばはるか昔の記憶が呼び起こされた。




 仙界にある蟠桃園。西王母の誕生日を祝う宴も終わり、今は静かな空気が漂っていた。
蟠桃園自体は西王母が招待した者には自由に開かれる場所であるが、その一番奥にある桃の木の辺りには、この園の主である西王母と天界の長である天帝、それに西王母の娘である七仙女しか立ち入ることはできない…はずだった。
仙界と言うところは天界と人間界を繋ぐ狭間に存在する者であり、時折、〈人〉が迷い込んだりもする。蟠桃園の桃は、人間にとって万能の薬となるらしく、多くの〈人〉がこの場所を目指してはたどり着けず命を落としてきた。

 だから、その時も。〈人〉の姿を見つけた時に、ただの迷い〈人〉なのだと思った。
 西王母が管理するこの園の桃の実は〈人〉に盗られて良い物ではない。これまで迷い〈人〉に出会った時は傍らには姉である黄仙女が居た。彼女は〈人〉に仙術を施しその記憶をあいまいなものにさせることが出来た。そして、そのまま人間界へ導く道を開きうまくそちらに誘導することもできていた。
 しかし、今は自分一人だった。
 七仙女の末っ子である自分は、仙女とは言え琴を奏で衣裳を創り出すこと以外何の取柄もない。六人の姉たちのように仙術を使うことはできないのだ。
 今はまだその〈人〉は桃を手にとってはいない。桃の実がその枝からもぎ取られた時、西王母には何が起こっているのかわかるようになっていた。かつて〈人〉が迷い込みその桃の実に手をかけた瞬間。西王母が姿を現し、その〈人〉の首を仙力によって切り落とした。首だけを人間界へ送り胴体は塵と消し去ってしまうほど、西王母の怒りはすさまじかった。
 黄仙女を呼ぼうと踵を返したときに呼び止められた。
 その迷い〈人〉は自分の事を知っていた。〈人〉が神々の事を知るはずがないのにどうして…。
 紫仙女がゆっくりと振り返る。
 そこには美しく微笑む〈人〉が立っていた。
 左の手をたわわに実る蟠桃に添え、右の手は何かを隠し持つようにしているのがわかる。
 なぜ自分を知っているのかと声を上げようとしたとき。彼女は左の手で蟠桃をもぎ取った。
 周囲の空間がゆがむ。最初に姿を現したのは西王母。次に黄仙女、そして天界の四方を守護する四神たち。
 しかし、彼らが〈人〉を罰する前に事は起きた。
 〈人〉はもぎ取った桃をひと齧りして投げ捨て、右の手に持っていたそれを紫仙女めがけて振り落したのだ。
 紫水晶から生まれた紫仙女。彼女を傷つけることが出来るのもまた紫水晶。それを知るのは西王母と天帝、それに生と死を司る星の守護神である北斗星君と南斗星君。〈人〉であるその女が知るはずもないのに、その右手にある物…紫水晶で作られた刃。
 紫仙女の胸に深々と突き刺したそれを見て〈人〉は満面の笑みを浮かべていた。
 神々が揃っていながら目の前で起こった出来事。西王母は強い衝撃を受け、その気配はすぐに天帝へとも伝わりその場に姿を現した。
 天帝はすかさず紫仙女の元へ駆け寄ると、まずは〈人〉を引きはがした。しかし、〈人〉が握っていた刃も一緒に紫仙女の身体から離れたことにより、鮮やかな血の花がその場にこぼれ落ちることになった。
 刃だと思っていたものは紫水晶であり、紫仙女の命を消すには十分なものだった。
 天帝が掻き抱いた紫仙女の身体から光が飛び出す。慌ててそれに手を伸ばすも、光は天帝の指の間からすり抜け空中にいったんとどまったのち、はじけるようにしてその光を霧散させた。それと同時に、紫仙女の身体も砂のように崩れていき、やがて細かな粒子となって地に帰って行った。
 辺りには一瞬、強い桃の香りが漂ったのだが、それに気づいたのは青帝のみ。
 〈人〉は高笑いを上げ、手に持っていた紫水晶を足元に落とした。すると不思議なことにそれはただの短剣に姿を変えていた。

 桃の花が咲き誇るその庭は血に染まっていた。
 何が起こったのか。その場にいた誰もが言葉を発することも忘れ、目の前で姿を消した紫仙女がいた場所をじっと見つめていた。
 その場では、天帝が己の手をすり抜けて落ちて行った愛しい末娘の魂の残り香をその手に閉じ込め茫然としていた。



 チェギョンはゆっくりと息を吐きだした。
 自分の魂が光となってはじけ飛び、仙女としての肉体を失うことは聞いていた通りだったので特に不安に思うこともなかった。不安だったのは…。
「貴方に会うために、何としても二人の記憶を取り戻さねばならなかったこと。きっかけは与えても良いが記憶そのものを与えてはならない。それが神との約束。何度も生まれ変わった〈人〉の世で、何度も繰り返したのに、すべてを知るのはいつも失敗した後。ひとつ前の〈人〉の世で私は疲れてしまって…」

 死の瞬間、願ってしまった。

――次の人生で失敗したらすべてをあきらめたい

 今世は今までで一番、彼から離れていた。
 記憶がなくても「その場所」から離れたくない、「その場所」にずっととどまって居たい、その強い想いだけが常に心の中にあった。だから、王宮へ行かねばならないと言われたときに感じた深い絶望は今ならわかる。
青帝は必ずこの国の王子として生まれる。妃選びを行うのはおそらく青帝の生まれ変わりであろう王子のはず。しかし、出会った王子は青帝ではなかった。覚醒する前の自分にとっては本能的に感じ取った違和感、それに万が一にでも妃になど選ばれたら今世も失敗に終わってしまう。

「今までの〈人〉の世と違ったのは、私の側にハヌルが居た事。彼女は上手く私の覚醒を促す役目を果たしてくれた。彼女の話を聞く限り、あの人も今回が最後だと思っている。ならばそれに応えましょう」

 明日がおそらくその機会だ。シンが何をしようとしているのか薄々感づいてはいるが、その行動のすべてを知っているわけではない。ここまで天界の関係者が揃ったのだ。もし今回も失敗なら…自分は無に帰すことを願う。

チェギョンは決意を新たにした。




 シンが目覚めたのは自室の寝台の上だった。
 目の前に見える天井の模様が記憶の物と相違しているような気がして今一度目を閉じた。その時微かに桃の香りがしたように感じた。
 自分は桃が食べられなかった。嫌いなのではない、食べることが出来ないのだ。幼いころ、そうとは知らずに一口食べただけで体が拒絶反応を起こした。
 だから、誰も自分の側に桃を持ってくるなどありえない。

「…そうだ…蟠桃園では何ともなかったのに…どうして」

 そう呟いてはっとした。自分は何者だ?どうしてここに居る?
 勢いよく体を起こし辺りを見渡した。桃などどこにもなかった。しかし、記憶がそうさせているのか、あの桃の匂いが感じられる。
 あの桃?
 自分で思ったことに疑問がわく。右手を取り出し握っては開くを何度か繰り返す。軽く腕ごと振るが何も起こらない。怒らなくて当然なのだが、こうすればそこに僕が現れるはず。
「現れるはず?」
 思ったことを思わず声に出す。そこで漸く自分の現状がわかったような気がした。
 違和感があった部屋の天井は確かに自分の、今〈人〉として生きている自分の部屋の物だ。そして、現れるはずだと思っていたのは、かつて自分は天界に住む神であった時の事。
「思い…出した…」
 自分が何者で、何故ここに居るのか。自分に課せられた運命。何を手に入れねばならないのか。
「…は…はは…っ」
 乾いた笑い声が漏れる。
「よりによってあの者の名か。もしや、父上は先代の星見からすべてを聞かされていたのか?それ故、私ではなくあの者を王太子に指名したというのか」
 シンはゆっくりと寝台から出ると軽く身なりを整えて部屋の外へ向かう。王太弟に与えられている殿閣は正殿を挟み離宮とは反対の方角にあった。東の皇太后の入れ知恵により、仕える内官や女官の数も少ない。もっとも、普段から王の影となりあちこちで歩く身でもあったし、東の皇太后から疎まれていることも知っていたので目立たぬようひっそりと暮らしていたのも幸いし、これまでの王太弟としての動きは誰にも気づかれてはいないはずだった。
 部屋の外には王太弟を護衛する目的で王宮警備隊員が立っているが、彼らはすでに計画の仲間だけで構成されている。そこに立っていたのはギョンだった。
「おう、目が覚めたか?」
 幼いころより一緒に行動していたこともあって、周りに人が居ない時は気安い口調で会話が進む。と言うことは、今はあたりに東の皇太后が放った者はいない、と言うことだ。
「ここに運び込んでから医者に診てもらった。過労からくる神経衰弱になりかかってるってよ。眠り薬を飲ませてずいぶん長く寝ていたな」
 シンは空を見上げる。
「あれからずっと眠っていたのか?」
「そうだな、寝言の一つも言いやしない。ぐっすりだったぞ」
「もう夜明けか…」
「ああ。正殿の方はもう動き出してる。後宮の令嬢たちも早起きして支度中だろうよ」
 そう言って、ギョンはあたりを見渡し再度誰もいないことを確認する。それでも憚れるのか、シンの耳元に口を寄せてささやいた。
「お前が倒れて、離宮に使いをやらせたんだが…」
「何かあったのか?」
「王女様もお倒れになったらしい」
「何だって?」
「西の皇太后さまは立后の儀もあるから、この件は外に漏れないようにしているが、お前には知らせて欲しいと言ってこられたんだが、お前も倒れただろう?西の皇太后さまはお一人で何とかされているらしい」
 シンは唇をかみしめた。
 炎帝である姉に、自分が覚醒したことを知らせねばならないというのに倒れただと?しかも、今日は立后の儀。頼る者はすでにそれぞれの場所で動き始めている。
「…立后の儀の前に離宮へ行く」
 ギョンは一つ頷く。
 身支度を整えるため女官の手配をし、すぐさま離宮西の殿閣へと向かった。



2021-12-01 (Wed)

【夏宵奇譚】第34章

【夏宵奇譚】第34章

【第34章 蟠桃園に帰す】――青き星が流れ落ちた。  先代の星見がまだ幼かったハヌルに向かい、感慨深げに言った。〈青き星〉は青帝が誕生する際に流れるもの。星見であるハヌルには深い説明などはいらなかった。いよいよ、星見の代替わりが行われるのだ。 正神殿にて、ハヌルは先代の星見からそれまでの星見の記憶と新しい予言を受け取ったのだった。 正殿から追い出されるような形で、ハヌルは後宮へと戻る。王太弟であるシ...

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【第34章 蟠桃園に帰す】

――青き星が流れ落ちた。
 
 先代の星見がまだ幼かったハヌルに向かい、感慨深げに言った。〈青き星〉は青帝が誕生する際に流れるもの。星見であるハヌルには深い説明などはいらなかった。いよいよ、星見の代替わりが行われるのだ。
 正神殿にて、ハヌルは先代の星見からそれまでの星見の記憶と新しい予言を受け取ったのだった。



 正殿から追い出されるような形で、ハヌルは後宮へと戻る。王太弟であるシンは覚醒できないにもかかわらず、沢山の過去にまつわる話を聞き、少しばかり頭の中が混乱したままの様子で「行くところがある」と言って先ほど別れた。ヘミョンに至っては真っ先に離宮へと向かい、その姿はすでにない。
 立后の儀は明日。王は何かを起こそうと考えている。それはわかったが、それが何なのかは全くわからない。それよりも、紫仙女であるチェギョンを守らねばならない。本来、星見にはそこまでの役目はなかった。青帝と紫仙女の二人を見つけ出しさえすればよかったのだ。
「北斗星君が紫仙女を求めていることはわかったのだけれど…」
 回廊の途中で歩く足を止め、星見の住処である正神殿のある方を見やる。頭の中に浮かぶのは先代の星見。
 自分にとっては星見としての師でもあった男だ。この国の事、星見が生まれるわけ、すべてを彼から伝授された。星見が紡ぐ予言の事もそうだ。引き継いだ予言はすでに大方が達成されている。
「今は後宮においでのチェギョン様もさすがに今夜には後宮へ戻っていただかねばならないわ。急がないと」
 ハヌルは再び歩き始めた。



 王宮警備隊詰め所。シンはそこに向かっていた。
 詰所の奥にある隊長室に入ると、そこには数名の隊員がいた。
「王太弟殿下。準備は整いました」
 隊長席に座っていた中年の男が、シンの姿を見るなり立ち上がって言った。
「東の皇太后が犯した罪の証拠もちゃんとそろえて…って…おい」
 隊長の側に控えていたシンと同い年の隊員ギョンが報告書をもってシンの顔を見やると同時に、その顔色の余りの悪さに思わず駆け寄ってきた。
「どうした、何があった?」
「殿下。王陛下の元で何か?」
 隊長も心配になり近寄ってくる。他の隊員もシンの様子に心配そうに眉をひそめた。
「王は…明日、何かを起こす気だ」
「それは、我々の動きが感づかれているということですか?」
「いや…そういうことではない。しかし、今の我々では王を打ち倒すことは難しくなるかもしれない」
 ギョンはシンの言う意味がよくわからず思わず表情を歪ませる。
「ギョン。もしも明日。儀式の途中で俺に何かが起こっても予定通り動くんだ」
「どういうことだ」
「先王の正当なる王子として、俺は間違った王をその玉座に座らせておくわけにはいかない。だが、星見の予言が実行されれば…」
 星見の予言。なぜここで予言がでてくるのか。ますます訳が分からないギョンだったが、次の瞬間、シンの身体が重心を失い床に倒れ込むのを必死にその身体を抱えることで防ぐことになった。
「「殿下!!」」
 隊員たちも慌てて駆け寄ってくる。
 シンはギョンに抱えられたままゆっくりとその場に力なく座り込んだ。頭が痛む。自分の胸にある守護神の証しが熱を持っているのがわかる。何かが頭の中に浮かんでは消えていくが、その何かがはっきりとせず吐き気も込み上げてきた。
 次の瞬間。
 膨大な量の記憶が流れ込んできた。そのあまりの多さに、シンは意識を保つことが出来ず、ついにその場に倒れ込む。
「おい…シン!」
 ギョンの自分の名を呼ぶ声を遠くに聞きながら、シンは意識を手放した。



 桃の香りが辺り一面に漂っていた。天帝が最も愛する西王母の誕生日を祝う宴が開かれている。
 水を司る龍族の王となり、さらに先代の青帝が長きにわたる勤めを終え無に帰すことになったために、天帝より青帝の名を拝命し、初めてその場所に立ち入ることを許された若き神。己の左腕には眷属として従えている青龍が巻き付いている。
 桃の木の間を潜り抜けて奥を目指すと、その先には開けた場所があり、そこでは七色のそれぞれの衣装を身に纏った仙女たちが歌い踊り楽を奏でているのが見えた。さらにその奥には今日の主役である西王母が柔らかな笑みをたたえているのが見て取れた。
 西王母は青帝である自分の姿を見つけると「こちらへ」と手招きしてくる。西王母の近くに用意されている席には、既に天界の四方を護る四神のうち自分以外の三人が居て、酒を飲み交わしていた。鮮やかな羽を背中に持つ火の神である炎帝、透き通る肌に金色の鱗が居浮き上がりその額からは一本の黄金色に輝く角が生えている獣類を統率する白帝、女性のようにしなやかな体を持ちながらひとたび戦場に出れば誰よりも強く導きの神と言われる玄帝…。
 青帝の左腕に巻き付いていた青龍が何かに気づくようなしぐさをした後、着物の袖口に姿を隠してしまった。誘われるまま、四神の中に入り座る。そのまま杯を渡され酒を注がれると、最初のひと口は一気に飲み込んだ。桃の香りのするその酒は飲みやすく、注がれるままに杯を重ねていった。
 目の前で楽しそうにはしゃぐ七色の仙女たちの楽の音と歌声と舞いに見惚れ、それが西王母の愛する娘たちであると玄帝から説明を受けると、その中の一人…琴を演奏している紫仙女に視線が止まった。その視線に気づいたのか、紫仙女がこちらを見返してくる。
 己の視線と紫仙女の視線が一瞬だけ絡み合った。たったその一瞬のその出来事だけで…。

――自分は、恋に落ちた。

 すぐに外された視線を名残惜しむように見つめ、宴が終わるまで、自分は紫仙女の姿を求め続けた。


 

 離宮。チェギョンの居室。
 夕食まで休めと言われたが、頭の中の記憶を整理するだけで軽い眩暈を覚える。チェギョンはこめかみのあたりを押さえ、少しばかり呼吸を荒くした。
 あれから随分記憶が蘇ってきていた。〈人〉として何度も生まれ変わってきた記憶が鮮明になり、今は…紫仙女であった時の記憶がほぼ蘇ってきたと言ってもいい。
 あの時、自分の胸に突き立てられたのは刃ではなかった。刃の形をした己の守護石…紫水晶だった。仙人としての自分は〈人〉とは違い、心の蔵を傷つけられても死ぬことは無い。しかし、確実に死と言う物を見せつける必要があったのだ。
「青帝が目覚めなければ、私はまた〈人〉として輪廻を繰り返さねばならない。これだけ条件が揃った今世こそ、その輪廻を断ち切る機会だというのに」
 チェギョンは思わず盛大な溜息を洩らした。
 明日はいよいよ立后の儀。何も起こらないわけがない。
 少しだけ…そう思い、整えられた寝台に横になる。これまでの数日、気を張り詰めていたせいもあって睡魔は訪れる。眠ってはいけない気もするが、眠気には勝てず意識を手放した。


 後宮。
 人目を避けてヘミョンは再びヒョリンの部屋を訪れる。ヒョリンの方も正殿で起こった出来事の詳細を知りたかったので、ヘミョンの訪問を待っていたのだ。

「王は、百番目の百花の精霊だったわ」
「そうでしたか…。なるほど、納得しました。チェギョンさんへの王の執着には少しばかり引っ掛かるものがあったので」
「どういうこと?」
 ヒョリンはヘミョンの目を見つめる。
「…何?」
「…王は他に何を?」
 ヘミョンは王の執務室で語られたことを話して聞かせた。ヒョリンはところどころ頷きながらも無表情で、王の告白に対してどんな感情を抱いているのか全く分からない。すべてを話し終え、それでもヒョリンは表情を変えなかった。
「百番目の精霊は、天界においても特殊な花であったのはご存知ですね?」
 ヒョリンにそう尋ねられ、ヘミョンは頷く。
 百番目の精霊が守護する〈曼殊沙華〉は、他の精霊が守護する花とは違い、種を作らない。種があれば天界のどの場所でも花は育ち咲くことが出来る。さらには時折、代替わりをする際に生まれる種を、百花仙子が人間界へ持ち出しては蒔き芽吹かせることで、人間界でも咲くことが出来ていた。だから、種を作らない〈曼殊沙華〉は人間界には存在しない、天界のみの花。
「他の精霊たちは幾度かの季節を渡り終えると代替わりのための種を作り〈人〉としての生を今度こそ受けるため人間界へ戻って行くのに対し、百番目の精霊は種を作ることはありません…いえ…ごくまれに…精霊の穢れがすべて浄化されたその時に種を作る。その時にようやく彼は〈人〉として他の精霊同様、人間界へ戻ることが出来るのです。私が天界で過ごした年月の中で百番目の精霊が代替わりをしたのはたった一度だけでした」
「花に限ったことではないわ。天界の様々な生物を守護する精霊たちのほとんどはかつて〈人〉であった者たちの魂魄。天界に春告げる蝶々姫たちは乙女のまま生を終えた者たちの魂魄であるし、冬告鳥君たちは幼くして亡くなった童たちの魂魄でもあるわ。どの精霊たちも〈人〉として人間界へ還ることが出来る。天界で過ごす時の長さの事を言うのなら、なにも百番目の百花の精霊に限ったことではないはず」
 ヒョリンはヘミョンから視線を外し軽くうつむいた。神々には理解できないのかもしれない。〈人〉として生まれたかったのに、己を宿した母たるものに生まれることを拒否された者の存在の事。そして〈人〉として生まれながら神になりたいと願う者が居る事。
「かつて〈人〉であった精霊は、〈人〉であった時に人間界に残してきた未練と言う物をすべて浄化するために、神々にすくい上げられるのかもしれません」
 そう呟いたヒョリンの言葉に、ヘミョンは意味が解らないと言った風に首を傾げた。仕方のないことだ。神々の世界にしか生を受けたことが無い者には到底理解はできないであろう。
「母である西王母が愛でる、仙界の奥深くにある蟠桃園。一年中絶えず花が咲き実を結ぶその仙桃は不老不死の力を持つと言われ、西王母の管理下にある。今はおそらく七仙女の長である紅仙女が西王母に代わり蟠桃園を護っているのでしょう。間もなく、天界は元の理に戻る。炎帝様、貴女様の役目もこれまでです」
 その言葉にヘミョンが反応するより早く、ヒョリンの手が伸ばされ、ヘミョンの胸元に触れる。
「今世では東の皇太后と呼ばれるまでになったあの女の記憶も覚醒した。天帝から託された任務もこれでおしまいです」
「…っ。ヒョ…リン…っ」
 ヘミョンの顔が苦しさに歪む。王の執務室で東の皇太后に己が守護の玉を奪い取られた、あの時以上の苦しみだ。
「安心なさって。王女ヘミョンとしての貴女様はそのままですから」
 そう言って微笑むヒョリン。目を大きく見開き苦しげに呼吸を繰り返すヘミョンの胸元に玉が現れる。それをヒョリンが手に取ると、赤い玉は次第にその形を変えていく。

 意識を失う直前にヘミョンが見た物は、朱い炎を身に纏った鳳凰の姿だった。



 揺らめく炎。しかしそれに熱さはない。帆炎の鳳凰はゆっくりと羽ばたきを繰り返しながら宙に浮いていた。その下には意識を失ったヘミョンの姿。
 ヒョリンは炎の鳳凰の前に跪いた。
「この部屋には結界が張られておりますれば、そのお姿と神力は漏れることはありますまい。本来であればこの王宮全体に結界を張ることが出来ればよかったのですが、仙女でしかない私にはこの小さな部屋の結界が精一杯。私が天帝より授かったこの神具が天界への道を示してくれます」
 ヒョリンが取り出したのは、舞を舞うときにはいつも身に着けている装飾品だ。細長い金細工が何本も垂れ下がり、そのいくつかには赤い石がはめ込まれている物。
 それを炎の鳳凰の前に差し出せば、ゆらりと天に向かって一本の線のように浮かび上がり、金細工がしゃらしゃらと音を奏でながら輪を作っていく。やがて炎の鳳凰とヒョリンの間には神具で作られた金の輪が出来上がった。その輪は天界への道。
「蟠桃園の奥にある古木の根元にある水晶と繋がっています。この道が繋がったことを白帝様も気づいておられるはず」
 白帝の名を出せば、炎の鳳凰は一瞬その目を細めたように見えた。
 結界の中で天界との道が繋がったとはいえ、炎帝たるその化身は声を発することはできない程、その神力を消耗しているようだ。
「お気をつけて」
 ヒョリンのその人声を聞くと、炎の鳳凰は神具の輪の中にその身体を潜り込ませた。その姿が完全に輪の中に入ったと同時に、神具は輝きを失い解けて床に落ちた。